私達は皆何らかの世間の中に生きている。その掟を守って生きているのだが、何らかのはずみで世間から後ろ指を指されたり、世間に顔向けできなくなることを皆恐れている。私達自身は気がついていないかもしれないが、皆世間に恐れを抱きながら生きているのである。
「世間」とは何か (講談社現代新書) 阿部 謹也 講談社 1995-07-20
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だから私達の社会では「自分の好きなように生きる!」とか「夢を叶える!」と主張するときには「!」がつくことになるわけです。あえて強く主張して、何かと闘うというジェスチャーが切り離せないわけです。その闘う対象が「世間」というわけです。
こういうことを言うと何か「自分の努力不足を「世間」のせいにしている」ように聞こえるかもしれません。つまり、犯罪的なことをするのでもない限り、日本でも今や「世間」が「個人が個性的に生きるのを邪魔したり、やりたいことをやるのの障害になるわけではない」という異見もあるでしょう。
しかし『「世間」とは何か』の著者は、「世間」が「個人」に対して強い制約を課しているという見方を取っています。私もこの著者の見方に賛成です。理由は様々あるのですが、その様々を書いているうちに『「世間」とは何か』はけっこう分厚く(新書で260p)なっています。このエントリで全部を書くわけにいきませんので、部分的に紹介します。
なぜ漱石が読み継がれるか?
「好きなことをする」という表現ではピンとこないかもしれませんが「個性の開花」といえばすぐ夏目漱石が連想されるでしょう。漱石がずっとテーマとしていたのが「日本で個人が自分なりの生き方をするとしたら、どういう障害にみまわれるか」といったことです。それをはっきりさせてみた作品の1つに『それから』があります。
小説の中で、テーマをそのまま論文のように書いたら小説になりませんから、「個人はどうしたら自分なりの生き方ができるか?」といったテーマも、具体的な事件として扱われます。だからテーマが見えにくくなるという難点は残ります。『それから』のテーマはいまふうの言葉で言うと「略奪愛」のように見えるかもしれません。
確かに主人公、長井代助は最終的に「他人の細君」を求めて友人と対決するという事態に至ります。この行為だと、誰から見ても非難の余地はありますから、「個性の開花と世間の障害」というテーマを見失いそうになりますが、次の一節には、自分なりの生き方を取ることと、社会的(つまり世間的)に安全な生き方をすることの間には、はっきりした相克があることが強調されています。
彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずるとおり発展させるか、又は全然その反対に出て、何も知らぬ昔に戻るか、どっちかにしなければ生活の意義を失ったものと等しいと考えた。その他のあらゆる中途半端の方法は、偽りに始まって、偽りに終わるより外に道はない。ことごとく社会的に安全であって、ことごとく自己に対して無能無力である。(一部句読点を変えたり「ひらいて」あります)
それから (新潮文庫) 夏目 漱石 新潮社 1985-09-15
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代助に多少でも感情移入した読者なら、ここで必ず「はたしてどっちを選ぶべきか?」という悩みが頭をよぎるでしょう。それはそのまま「世間の中で安全に個を殺し続けて生きることは、はたして意味のあることなのか?」という問いになるわけです。
「社会的に安全」であることはむろんよいことです。しかしそれが同時に「自己に対して無能無力」となるわけです。社会的に安全にいき、かつ、個性を存分に開花させるといったいいとこ取りはできない。物語がそういう状況に代助を追い込むわけですが、「略奪愛」だろうと「独立」だろうと「有名になること」だろうと「作家として生きる」だろうと、ようは「自分なりに生きる」ということと「社会的に安全に生きる」が両立しなくなる状況がありうる。
「そんなのは当然だ」と思われるでしょうが、これが当然のことか希なことかはさほど重要ではないのです。重要なのは、この相克でいちいち「安全」を選択し続けていると、結局個性はつぼみのままで死期を迎えるしかない、という件なのです。そして、少なくとも日本では、この相克が個人に降りかかってくる頻度が案外頻繁であり、真剣に取り組むと相当に厄介なことになるから、真剣に取り組まないで生きるという生き方が、案外「伝統的」ですらあるのです。
つまり世間や世の中の様々な掟に縛られている個々の人間としては、自分なりの生き方をしたいと思っても、容易にはできない。人々はそのようなとき、自分の諦念の感情を「無常」という形で表現してきたのである。「世は無常」という形はその表現の1つなのである。
「世間」とは何か (講談社現代新書) 阿部 謹也 講談社 1995-07-20
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歌や物語の中で、何かの拍子に「無常」のようなことを言う登場人物がとても多い。「自分なりの生き方をしたい」と思ってきた日本人は、実に古代から相当の数に上るのですが、そのたびに「世間」によって頓挫させられ「世は無常」と和歌に歌ってすませていたか、それですませられないときに極端なケースでは、自殺したりするわけです。
隠者モデル
しかしそれではあんまりです。要するに「自分なりに生きる」ということはたいていの場合許されず、チャレンジしてみてうまくいかないときに、どれ一句とばかり「世は無常」と嘆いてみたり、自殺してみるといった方法しかないのでは、日本人として生きるというのは実につまらないということになりかねません。
何かもう少し、世間とうまく距離を取り、世の中の掟にがんじがらめにされないように図りつつも、後ろ指を指されないような生き方はできないものでしょうか。
『「世間」とは何か』の中で、そういう生き方に曲がりなりにも成功したモデルとして「隠者」があげられています。すなわち「自分なりの生き方」を世間に頓挫させられないように、世間から隔絶してしまうか、少なくとも世間に対して背を向けてしまうといったやり方です。
ブログを書いてかなり読まれるようになった人などには、次の「徒然草」からの引用はなかなか響くと思います。「響く」とすればそれは「世間」というものがどんなものであるかを、思い知らされているからです。(リンク先に現代訳があります)。
人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗遠し。吾が生既に蹉蛇たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。
もちろん現代人であれば「隠者」といっても別に山ごもりしてしまう必要はありません。しかし、必ずしも世に知られないままに、たとえばブログなどだけは妙に多くの人に読まれるようになれば、現代的な隠者として生きることは可能になります。アフィリエイトで収入を得つつ、オンラインショッピングで生活費を抑えるようにして、人とめったに顔を合わせず、ひっそり生きるということも、できなくはないのです。
なぜそんな極端な生き方をするのかといえば「何らかのはずみで世間から後ろ指を指されたり、世間に顔向けできなくなることを皆恐れている」からでしょう。ひっそりと生活の糧を得、ひっそりと生活していれば、「何かのはずみ」が起こる確率を確実に低くしておくことができるのです。そのうえで「自分なりの生き方をする」というわけです。
「世間」とは何か (講談社現代新書) | |
阿部 謹也
講談社 1995-07-20 |