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不確実な時代を生き抜くために、まず自分についての「誤解の連鎖」を断ち切る



大橋悦夫「野球選手になることを目指していたが、現実は厳しかった」

…というような表明を耳にすることがあります。「野球選手」を別の言葉に置き換えてもいいでしょう。

どんなシチュエーションで耳にするか。それはその人が自己紹介をしている時です。名前や職業に続き、ひとしきりの身の上話が落ち着いたところで、ふと出てくることが多いです。

「今ではしがない○○ですよ」

と続くこともあります。

ここで僕がいつも感じるのは、そもそも本当に「野球選手」を目指していたのだろうか? という素朴な疑問です。

本当はもっと別の何かを目指していたはずが、それがうまく言葉にならないからか、あるいは「野球選手」という目に見えるイメージに引き寄せられたせいか、自分でも気づかないうちにゴールがすり替わってしまう。

その後も自己紹介の中で「野球選手になることを目指していたが~」という表明を繰り返しているうちに、最初に目指していた「別の何か」は完全に見えなくなるのです。

ある意味、自分で自分のことを誤解し続けている状態です。

「自己紹介」とは何か

自己紹介という行為の意味は、「初めて会う人に、自分で自分の姓名・職業などを述べ告げること」(大辞林)と定義されています。

でも、伝えるべきことはもっとあるでしょう。「姓名・職業など」の「など」の中身です。語り始めればいくらでも語れる人もいれば、「何の特技もない普通の人間です、以上」という人もいるかもしれません。

人それぞれに自己紹介の“原典”を持っていて、「自己紹介をしてください」と言われると、伝える相手との関係性や、その場のコンテクストによって、この“原典”に何らかの編集を加えた「ダイジェスト版」を差し出すことになります。

厳密な「ダイジェスト版」を作ろうとすると、その元となる“原典”の「完全版」が必要になりますが、この「完全版」を作っている人はまれで、多くの人は自分に関する断片的な“抄録”をいくつか寄せ集めて、仮の「完全版」となし、そこから「ダイジェスト版」を編さんしています。

ここで気になるのは、この「ダイジェスト版」をもって自分のことが値踏みされてしまうことです。

もしこの「ダイジェスト版」が「完全版」に準拠していなかったり、「完全版」とは異なる“編集方針”がとられていると、そこに誤解が生じることになります。

この誤解は本人にも気づかない可能性があります。特に「完全版」を作っていない人にとっては気づきようがありません。

そうなると自分で自分のことを誤解することになり、ここから誤解の連鎖が始まります。それは過小評価だったり過大評価だったり、いずれにしても早晩どこかでこのズレが表面化して立ちゆかなくなります。

その結果「しがない○○」という自己評価に陥るのです。

ふだん考えていることは氷山の一角に過ぎない

人はこれまでに経験したこと、学んだこと、感動したこと、達成したこと、失ったことなど、すべてを記憶していると言われています。

でも、ふだんの仕事や生活の中ではそのごく一部しか参照あるいは利用していません。

記憶していても、すべてをすぐに思い出せるわけではないからです。

少し時間をとって考えれば思い出せたり、思い出の匂いや場所といった刺激によって蘇る記憶もありますが、何もしなければごく一部の印象的な記憶だけを頼りに毎日を送っているわけです。

このような毎日から編さんされる「ダイジェスト版」はそれなりではあっても“浅漬け感”を残すことになります。

「これはこれで悪くないけど、本気出したらもっとすごいんじゃなかったっけ、自分?」というモヤモヤ感です。

ブログは微分された自己紹介

いきなり完成された自己紹介を差し出すことは難しくても、少しずつ積み上げていきながら全体としてそれなりに納得のいく自己紹介をする方法があります。

それは、ブログを書き続けること。

自己紹介の難しさは、時間の制約にあります。

限られた時間枠の中で最大限に自分をストレッチして見せつつ、それが「誇大」に振れないようにコントロールするという器用さが求められます。

これは映画の予告編に似ています。

「本編」を観てもらうために限られた時間枠の中に選りすぐりシーンを詰め込みつつ、「本編」に存在しないシーンをうっかり捏造しないようにする、という点で。

時間の制約を取り払うことができれば、試行錯誤の余地が生まれます。

1つの記事でうまく表現できなくても、別の記事で別の角度からリトライすることができます。

こうして時間をかけて少しずつ自己紹介を積み上げていくことで、誰よりもまず自分自身が自分のことをよく知ることができます。

ブログが「ぬか床」になるからです。

そのためには自分で書いた記事を読み返す必要があります。

まさに「ぬか床」をかき混ぜるようにです。「ぬか床」は手入れが欠かせないのです。

こうしてブログという「ぬか床」を育てていくとそれは自分独自のアウトプットのベースになります。

ぬか床に野菜を漬けるとぬか漬けができるように、自分のブログに合ったトピックを取り上げることで、自分独自の「ぬか漬け」をアウトプットできるのです。

例えば、「新しいiPhoneが出たけど、あのブログではどのように紹介されるだろうか?」という期待を人に抱かせるとき、そのブログにはすでに認知された「ぬか床」を持っていることになります。

ほかでもない、そのブログの「ぬか漬け」が指名されている状態だからです。

ここまで来ると、自己紹介はきわめて楽になります。

特にブログを読んでいる人にはすでに「味」として知覚してもらえるようになっているからです。

いま改めて「自己紹介」が必要な理由

以下の記事でも書きましたが、

» 不確実な時代を生き抜くための“磁針”を持つ 

それは、「時代が変わっても変える必要のない“磁針”を持つ」というスタイルです。

“磁針”とはコンパスのことです。

どんな武器を手にして戦うか、よりも先に、どんな戦い方をするかという方向性が明確に決まっているのです。

戦い方が決まっているからこそ、その時々でもっともフィットした武器が選べます。

優れた武器を使っているから勝てるのではなく、自分の戦い方を知悉しているからこそ、自分にフィットした武器を選ぶことができ、その結果、勝てる。

武器ありきではなく、まず戦い方ありき、ということです。

ここで言う「戦い方」には、ブログの書き方も含まれます。

  • どんな歴史を刻んできた自分が、
  • 何をテーマにして(何はスルーして)
  • どのような問いに答えようとするのか

という、3つの問いに答える活動がブログであり、その書き方を考えることは、とりもなおさず「自分のあり方」を決めることにほかなりません。

「不確実」を別の言葉で言い表すならば、それは「ボーダーレス」です。

ボーダー(境界線)がなくなるということは、前提や常識やコンテクストが崩壊する、ということ。

このことによる影響は書いているブログに強く現れるでしょう。

思わぬ人の目にとまることで、ポジティブにもネガティブにも振り回されるようになるのです。

それは、ブログを読んだメディア関係者からのオファーであったり、前提を共有できていない匿名の有象無象からの誹謗中傷であったりします。

ボーダーがなくなる、ということはそういうことです。

だからこそ、自らボーダーを定め、その境界線内に入ってくる人たちとともに自分にとって望ましい世界を構築していくことが求められるようになります。

ブログを続けることは、「この指とまれ」なのです。

ボーダーがないからといって、あらゆる人に受け入れてもらおうとすると必ず破綻します。

だからこそ、テーマを絞り込むことでボーダーを定めるのですが、さらに、その境界線によって生じた小さな世界が、自分のこれまでのベクトル、すなわち「野球選手」を目指す前に志向していた方向性に沿うものであるかの検証をくり返す必要があります。

一度立ち止まり、時間をかけて「完全版」を作り込む

この検証に役に立つのが「ダイジェスト版」ではなく「完全版」としての自己紹介です。

言い換えると自分史です。

生まれてから昨日までの、思い出せる限りの、掘り起こせる限りの、自分に関する全歴史。

この自分史がブログという自己紹介を積み上げていくための「ぬか床」になります。

一時的な思いつきや流行に左右されず、これまでの人生を通じて自分の中に一貫している軸を見つけ出し、この軸からぶれることなく自己紹介を紡ぎ続けていく。

そのためには、一度立ち止まって、時間をかけて自分史を作り込む必要があります。さもないとえんえんと“浅漬け”を作り続けることになりかねないからです。