自分という人間はさまざまなパーツで構成されている。パーツ1つ1つはもちろん、いくつかのパーツが組み合わさって、そこに自分らしさが生じる。
このゲームでは持ち合わせのパーツしか使えないのだが、その組み合わせ方を工夫したり、あるいは特定のパーツを掘り下げていくことで、そこに人との差異を生み出せる。突き詰めて切り出していくと専門性と呼べるものになる。
自分がどんなパーツを持っているかを改めて確認してみる。
人が持っているパーツをうらやむ前に。
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これまでの人と人の関係は化粧箱のなかで切り分けられているケーキとケーキの関係でした。それぞれは独立し、分断されているけれども、でも同じ化粧箱のなかに束ねられているという連帯感みたいなものがあったのです。
でも〈場〉のなかでは、私たちひとりひとりもレイヤーによってスライスされています。たとえば私という人間は、佐々木俊尚というひとりの独立した個人だけれども、一方でさまざまなレイヤーも持っています。
日本人というレイヤー。
ジャーナリストという職業のレイヤー。
兵庫県西脇市出身という出身地のレイヤー。
愛知県立岡崎高校を卒業したという出身校のレイヤー。
和食が好きで、料理をつくるのが日課という食の好みのレイヤー。
登山とランニングを愛好しているという趣味のレイヤー。そういう無数のレイヤーを積み重ねていった結果として、私という個人がある。ジャーナリストは日本にもいますが、その他のレイヤーも私とすべて同じくというジャーナリストはたぶんいません。同じように岡崎高校出身者は何千人もいますが、その他のレイヤーも私と同じという同窓生は存在しません。
(中略)
こういう分離された無数の細かなレイヤーをすべて積み重ねていくと、私という個人ができあがる。でもそのそれら無数の細かなレイヤーを、すべて私と同じように共有する人はおそらくいません。そこに私が私であるということ、私という人間のアイデンティティがあるのです。(p.21)
» レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書 410)