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自動化しきれない、最後にあるいは最初に自分でやるべきこと

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馬で行くことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない。
─ゲーテ


たいていの処理は自動化することができるが、最後の判断は自分で行わなければならない。

まずは、手動でやっていることで自動化できることがあれば自動化のコンベアに乗せる。

次に、一度自動化したことが手動でやっていた時と同じ効果を発揮し持続しているかどうかを確認しする。もし問題があれば手動に戻して点検する。そもそも自動化すべきことではなかった可能性を受け容れ、さらにはそもそも自分がやる必要があったかどうかも振り返る。

自動化してみる、あるいは自動化してみようと試みるだけでも発見できることはたくさんある。この「発見を引き出す」ことこそ自分で行わなければならない部分。

以下は何度も読み返している『知的生産の技術』より「発見」についてのくだり。

「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。まいにちみなれていた平凡な事物が、そのときには、ふいにあたらしい意味をもって、わたしたちのまえにあらわれてくるのである。たとえば宇宙線のような、天体のどこかからふりそそいでくる目にみえない粒子の一つが、わたしにあたって、脳を貫通すると、そのとき1つの「発見」がうまれるのだ、というふうに、わたしは感じている。

宇宙線は目にみえない。目にみえない宇宙線を観測し記録するためには、それを目にみえるかたちでとらえる装置が必要になる。「ウィルソンの霧箱」とよばれる装置は、それである。

宇宙線は、天空のどこかから、たえず地球上にふりそそいでいて、だれの大脳をも貫通しているはずだ。したがって、「発見」はだれにでもおこっているはずである。

それはしかし、瞬間的にきえてしまうものだ。そのまま、きえるにまかせるか、あるいはそれをとらえて、自分の思想の素材にまでそだてあげるかは、その人が、「ウィルソンの霧箱」のような装置をもっているかどうかにかかっている。「発見の手帳」は、まさにそのウィルソンの霧箱なのである。


» 知的生産の技術 (岩波新書)