文章というのはとてもごう慢な表現手段だと思う。相手に「読む」という負荷を要求し、山の頂上からふもとにいる人に向かって、ここまで登って来い、と言う。
それに対して、図解はいたって腰が低い。「見たい人は見てね。言いたいことはこれだけですよ」という姿勢を見せる。文章と違い、プロセスをすべてすっ飛ばして、いきなり山頂に連れて行かれる。一望できる。分かるか分からないかは、一目で分かる。分からなければ、なぜ分からないのか、その理由も見た途端にすでに明らかになっている。ただし、本当に分かったのか、分かったつもりなだけなのか、は分からない。
文章という山に登る道中、人はいろいろ考える。山道のいたるところに無数の「行間」が横たわる。そこに何か新しい発見があるかも知れない。登頂する頃にはまったく別の考え方を持つに至るということもありえなくはない。あってもいい。あった方がいい。
でも、すべての山に登っている時間はない。あったとしても、一刻も早く、手っ取り早く頂上に辿り着きたいと思っている。
じっくりと自分の足で登るべき山がある一方で、ヘリコプターでさっさと直行して済ませたい頂上がある。