中学生の頃、「ウィザードリィ」というファミコンのロールプレイングゲームに熱中していたことがあった。
もともとは米国のApple IIで動くゲームとしてリリースされ、後にPC版として日本にやってくる。ファミコン版が発売されたのは1987年12月22日。
発売されるずっと前からファミコン雑誌で“予習”をしていた。といっても発売前のゲームに関する記事がそうたくさんあるわけではないので、同じ記事をひたすら繰り返し読んで想像を膨らませていただけ。
当時はインターネットはもとよりパソコン通信すらなかったので、雑誌記事だけが唯一の情報源。
同じ記事を繰り返し読み、パーティーの構成を考えたり、それぞれのキャラクターにどんな名前をつけるかを紙のノートに書き出す。
十分すぎるほどの“準備期間”をへて実際に「ウィザードリィ」手に入れてプレイし始めたときの喜びは今でも忘れられない。発売日の12月22日を当時使っていた銀行の暗証番号にするくらい惚れ込んでいた。
今なら検索すればたちどころに関連情報が読み切れないほど手に入るし、画像や動画も山ほど出てくる。
とはいえ、当時のことをふり返るにつけ、必要な情報が簡単に手に入る今と比べて、想像力を最大限に発揮していたことに思いいたる。今は想像力を駆使せずとも、「どんな感じか」がわかるので、それで事足りてしまう。
でも、それはあくまでも「わかったつもり」であって「わかった」にはほど遠い。大量の情報が押し寄せてくることで、想像力を働かせる余地が奪われ、思考が停止した状態で表層的な情報、あるいは発信者の都合にのみフィットした情報を知らず知らずのうちに刷り込まれてしまう。
情報が乏しかったからこそ、欠落した部分を想像力で補い、期待をふくらませることができた。
情報が乏しかったからこそ、「もっと知りたい!」という強い欲求が行動に駆り立ててくれた。
情報が手に入ることがわかっていても、集めたり分析したりするのはほどほどにして、さっさと実物を手に入れてみたほうがいい。
もし、1987年当時にインターネットがあったら、「ウィザードリィ」について納得のいくまで調べ尽くし、手に入りうるすべてのレビュー記事に目を通し、あたかもすでにプレイしたことがあるような錯覚に陥り、本来なら実物を手に入れてからたっぷりと時間をかけて、少しずつ、じっくりと味わうはずの楽しみがスポイルされていたかもしれない。
もしかしたら「わかったつもり」になって、満足して、買わずに済ませていたかもしれない。
まずは、一定時間をかけて想像力を駆使して自分なりの仮説を作ること。
次に、この仮説を検証するためにすみやかに実物を手に入れること。
仮説がないと、あふれる情報の迷宮をさまよい続けることになる。
実物がないと、わかったつもりの世界にとどまることになる。
つまり、前に進むことができなくなる。
inspired by:
どんな情報にも、表と裏があります。「メルマガを発行するべき」「発行するべきでない」「新規開拓を進めるべき」「既存客を深耕するべき」「商材を買うべき」「買うべきでない」…。
どんな情報を手に入れた場合にも、それをやるのか、やらないのかという2つの分かれ道があるわけです。そして、見方によってはどちらも正解なのです。
その情報が「自分にとってどうなのか」を知りたい場合には、行動するしかありません。たくさんの情報を集め、いろいろな角度から検証し、総合的に判断する。そして実際にどちらかを選び取る。
これをしない限りは、その情報が正しいのかどうかを知ることはできないのです。行動は経験を造り出し、経験は次の選択の精度を上げます。
「情報ため込み病」の人が善し悪しの判断がつかなくなってしまうのは、実行をせずに頭でっかちになってしまっているからなのです。知識は増えても、結局、何も生み出すことはできません。(p.14)