真の学問は筆記できるものではない。筆記できる部分は滓(かす)である。真の学問は行と行とのあいだにある。
─新渡戸稲造
滓というのはまた過激な表現だが、自分でも以前、次のようなことを書いたことを思い出す。
結局のところ、ブログは自分が書いた内容がいろいろな人に影響を与える、という「その後」よりも、それを書いている「プロセス」に意味があるような気がしてきます。書いた結果残るのは抜け殻のようなもので、すでに自分にとっては役割を終えている、という感じ。
そして、繰り返し読み続けている『峠』の中でも河井継之助は同じようなことを述べている。
その読み方も、かわっている。単に読むのではなく、例の彫るような難筆(こんなことばはないが)でもって、書写しているのである。
(ずいぶん、ご念の入った読み方だ)
と、佐吉もその点をおかしく思っている。筆写などをしていてはとほうもない時間がかかり、生涯多くの書物はよめまい。
「ではないでしょうか」と、ある日、きいてみた。継之助は笑いもせず、これが本当だ、といった。
「おれは知識を掻きあつめてはおらん」せっせと読んで記憶したところでなにになる。知識の足し算をやっているだけのことではないか。知識がいくらあっても時勢を救済し、歴史をたちなおらせることはできない。
「おれは、知識という石ころを、心中の炎でもって溶かしているのだ」
「溶かす」佐吉は、おかしかった。なるほど、継之助の面構えは、石でも溶かしかねぬところがありそうである。もっとも溶かす、とは継之助の陽明主義にあっては、知識を精神のなかにとかしきって行動のエネルギーに転化するということであろう。