ITmediaさんが運営するONETOPI(ワントピ)にて「仕事効率化」をテーマにしたキュレーションを担当させていただくことになりました(10月3日よりすでに正式にスタートしています)。
» 仕事効率化 | ONETOPI
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ちなみに、「キュレーション」を深く理解したいなら、佐々木俊尚さんの『キュレーションの時代』がおすすめです。
以下、僕なりの視点で“ハイライトシーン”をピックアップしました。
- これからの世界は、そうやって「つくる人」と「見いだす人」がお互いに認め合いながら、ひとつの場を一緒につくるようにして共同作業をしていく。(p.21)
- マスメディアの衰退とともに記号消費は消滅していき、二十一世紀は「機能消費」と「つながり消費」に二分された新しい世界が幕を開けるのです。(p.128)
- 家も持たない、本も書類も持たない、クルマも持たない。電子機器は最低限。そうやってクラウドとシェアの時代になると、手元のモノはどんどん少なくなっていって身の回りは極限までシンプルになっていきます。人と人のつながりがきちんと存在して、コミュニケーションを活き活きと楽しむことができれば、あとは余計なものは要らないじゃないかという、そういう時代に。「モノ」ではなく、たがいがつながる「モノガタリ」をつむぐ時代に。(p.130)
- 企業か個人か、という問題ではないのです。そこに人間らしさがあるか、自分の言葉で語っているかということが、エンゲージメントを形成してお互いにリスペクトを感じるためには絶対に必要だということなのです。(p.165)
- 「コンピュータとスマートフォンを組み合わせることで、検索エンジンにキーワードを入力しなくても、道を歩きながらでも知りたいことを検索することができるような日がいつかはやってくる。コンピュータが人の記憶を引き出し、物忘れを防ぎ、人の代わりに車を運転し、電話でのやり取りを即時に翻訳してくれる」(エリック・シュミット)(p.175)
- ライフログは無意識的に蓄積されているけれども、その蓄積されたデータが自分の目の前にかたちとして存在し、その存在をユーザーの側が意識しながら、第三者にひきわたしていくような「明示」の仕組みであれば、そこには「自分のあずかり知らないところで」という不安は発生しません。つまり明示的なアプローチによって、プライバシー不安を生みださない強固なアーキテクチャを構築することが可能になってくる。そしてこれこそが、実はフォースクエアのチェックインにほかなりません。(p.184)
- ライフログのようなアプローチでは、どうしても「自分の知らない世界」にたどり着くことができません。アマゾンでお買い物をしていると、アマゾンはつねにあなたの購買履歴だけを手がかりに「この商品はどうですか」と薦めてくる。過去に一度も買ったことのないようなジャンルの商品はなかなか薦めてくれません。でもツイッターで友人たちのタイムラインを眺めていると、まったく日ごろ自分が興味を持たないような情報が突如として飛び込んでくる──そういう体験は、ツイッターを使っている人ならだれにでもあるでしょう。(p.194)
- 「日ごろまったくマンガなんて読まないのに、だれかがこれ『超面白い』ってツイートしてたからつい買ってみたら面白くて徹夜しちゃった」(p.194)
- 「ツイッターで教えてもらったユーチューブの動画で、バレエを初めて見た。こんな表現の世界があったのかと驚かされた」(p.194)
- あるいはツイッターでだれかをフォローするという行為も、そのフォロー相手の視座にチェックインする行為ととらえ直すことができるでしょう。(p.196)
- 視座にチェックインし、視座を得るという行為。これはあなた自身の視座とはつねにずれ、小さな差異を生じつづけています。「あなたが求めている情報」と「チェックインされた視座が求めている情報」は微妙に異なっていて、そのズレは収集された情報につねにノイズをもたらすことになります。そしてこのノイズこそが、セレンディピティを生みだすわけです。あなたが期待していなかった情報が、その「ズレ」の中に宝物のように埋まっている可能性があるということなのです。(p.198)
- 視座とはすなわち、コンテキストを付与する人々の行為にほかなりません。そして私たちはその〈視座=人〉にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る。(p.204)
- この「視座」を提供する人は今、英語圏のウェブの世界では「キュレーター」と呼ばれるようになっています。そしてキュレーターが行う「視座の提供」がキュレーション。(p.210)
- コンテンツとコンテキスト。その両方の要素があってこそ、私たちはコンテンツをさらに深く豊かに愛することができる。そしてコンテンツとコンテキストは相互補完的な関係であって、どちらかが欠けてもいけない。コンテキストは決して「コンテンツのおまけ」程度の副次的な存在ではないということなのです。(p.218)
- ラーナーがダーガーの遺物を旅行かばんの中から発見し、そこに「アート」を見いだしたからこそ、ダーガーの妄想の産物はアートとして世の中に公表される結果となった。つまりはダーガーの『非現実の王国で』というコンテンツに対して、ラーナーがコンテキストを付与したということなのです。ここではコンテキストとコンテンツの関係が、ほぼ同じ強さをもって併存しています。ラーナーがいなければダーガーの作品はアートにならなかったし、もちろんダーガーの作品がなければラーナーがそれを発見することもなかった。相互補完関係なのです。(p.224)
- 「子どもの絵は、たしかにのびのびしているし、いきいきした自由感があります。それは大きな魅力だし、無邪気さにすごみさえ感じることがあります。しかし、よく考えてみてください。その魅力は、われわれの全生活、全存在をゆさぶり動かさない。──なぜだろうか。子どもの自由は、このように戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由ではないからです。当然無自覚であり、さらにそれは許された自由、許されているあいだだけの自由です。だから、力はない。ほほえましく、楽しくても、無内容です」(岡本太郎)(p.235)
- キュレーション・ジャーナリズムという言葉も生まれてきています。一次情報を取材して書くという行為の価値はインターネット時代に入ってもなくなるわけではありません。しかしそうした一次取材を行うジャーナリストと同じぐらいに、すでにある膨大な情報を仕分けして、それらの情報が持つ意味を読者にわかりやすく提示できるジャーナリストの価値も高まってきているということなのです。(p.242)
合わせて読みたい:
『キュレーションの時代』がどちらかというと個人の視点でインターネットの今が語られていたのに対して、『ソーシャルメディア進化論』は企業の視点です。
『キュレーションの時代』で語られている世界が企業というコンテキストではどのように見えるのか。ところどころ両書でクロスオーバーするところがあり、興味深く読むことができました。
関連エントリー:
・セレンディピティを活かすための手順
・「AMNブロガー勉強会」を終えて(スライド公開)
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「読む」と「目を通す」
日々大量の「読み物」が押し寄せてきます。とてもすべては読み切れません。必然的に取捨選択を始めるわけですが、ここで注意しておきたいことがあります。
それは、「読む」と「目を通す」の違いです。
前者は文字通り「読む」わけですが「目を通す」よりもじっくり読む感じです。最初から最後まで通読するニュアンス。
後者は「目を通す」という言葉の通り、一通りは対象に視線をスキャンさせつつも「読み取る」ところと「読み取らない」ところが出てくるニュアンス。
「読む」以上はしっかりと読まなければ吸収率にも影響します。でも、すべてを同じレベルで読むことはできません。時間的制約はもちろん、読み物を置いておくための空間的制約もあるでしょう。あるいは、書かれている内容が高度な専門知識を必要とする場合には知的制約も生じるかもしれません。
とはいえ、こういった制約があるからといって「読まないで済ます」(=捨てる)のは少しもったいない気がします。
筋トレで、一定の重さ以上のバーベルは持ち上げられないから、そもそも挑戦すらしない、という状況に似ています。筋力アップを図るなら、自分が持ち上げられるかどうかスレスレの重さに挑むことが大切です。
そういう意味では、とりあえず「目を通す」だけでも意味があると思うのです。そうすることで、「確かこういうことが書いてあった」とか「こういうキーワードが出てきた」という断片的ながらも、そこに書かれていることを吸収する準備が進みます。
筋トレでも「うわぁ、こんなに重いのか」という実感を持つことによって、体が“準備”をし始めるのに似ています。
時間がなくても、とりあえずタイトルや見出しだけでも目を通しておくことで、その分野に関する読み物を読み取るための“回路”のようなものが頭の中に形成され、次回以降の読み取りスピードの向上や読み取り密度のアップに貢献するのではないか、と考えています。