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自分を「カイゼン」しない


佐々木正悟 私は何度か自分のことを、

  • 発達障害なのではないか?

と疑ってみたことがあります。何しろあてはまりそうな項目が多いのです。

たとえば私を知っている人は、私のことを「不注意な人」と感じると思います。

小学校時代にはほぼ毎日のように「忘れ物」をしていました。私の時代の小学校というところは「忘れ物」にひどくうるさいところでした。

もちろん、うっかりミスややり損ないも多く、今も家族から冷たい目で見られたところです。

  • しかし、こんなことがそれほど「問題」なのでしょうか?
  • ほんとうにどうなのでしょう?
  • 「治す」必要なんか、ないことともいえないでしょうか?
  • 世の中この種の話に細かい視線を向けすぎではないでしょうか?

私などはやれ「タスク管理」だとか「チェックリスト」だとかに惚れ込むところがあるため、すっかり、

  • 失敗を記録して、改善するための仕組み化にいそしんでいる

思われがちですがそんなことはまったくやっていません。やってもムダなのです。

「お皿を落として割らない」とタスク管理に書いておいても割ってしまいます。好き好んで割っているわけではないからです。

そういう失敗を写真に撮り、言われたことをメモして、反省し、改善に向かったことがありましたが、それによって失敗しなくはならないのです。

そもそもカイゼンとは何か?

そもそも世の中では「あるがままの自分を肯定しよう」などと言われているものです。にもかかわらず「発達障害」となったらクスリを処方されたり、チェックリストを推奨したりするのはなんだか奇妙ではないでしょうか。

「やらかさないほうがいい」というのは本当でしょうか?

これが「戦争しないほうがいい」だったらそう思います。でもたかだか忘れ物やうっかりミスです。

喧嘩はしないほうがいいだろう。しかししてしまったなら、仕方がない。それは望んでいたことだと思う。換言すればそれによって重大な気づき、一期一会を得るためにしたことだと考えるのである。

こうした考え方もあるのです。

PDCAなどと簡単に言っても、「すでに起きたこと」を消し去るわけにはいきません。「次を改善する」と言いますが、「次のケンカ」は「前のケンカ」とは違います。世の中に起きるすべてのことは一期一会なのです。それは頭でしか分からないことかもしれませんが、ウソではないでしょう。

それに「ありのままの自分」が「やらかす」のであれば、それを「克服する」だの「改善する」だのが本当に可能だとして、やっていいものかどうかはまた別の問題です。

少し長くなりますが、次の引用はよく言われている一方、軽く無視されていて、そのコストは高くついているような気がしてしかたありません。

一言で言うと、問題行動を起こす人は、「ありのままの自分」ではいけないというメッセージをたくさんもらった人ということになります。

指示・命令に従えたら「いい子」で、従わなかったらダメな子。

毎回100点を取れたら「いい子」で、取れなかったときはダメな子。

男(女)らしい振る舞いができたら「いい子」で、男(女)らしい振る舞いができないとダメな子。

親の期待に応えられたら「いい子」で、期待に応えられなかったらダメな子。

きょうだいの競争に勝った者は「いい子」で、負けた者はダメな子、となるのです。

そもそも親の愛とは「無償の愛」でなければなりません。

「無償の愛」のなかで育った子どもは「ありのままの自分」でいいと自分自身を受け入れることができます。

「条件付きの愛」で育った子どもは、条件に応えられないときの自分を「ダメな人間」と思ってしまいます。

カイゼンとはまさに、

「条件に応えられないときの自分」を「条件に応えられる自分」に変質させよう

という試みにほかなりません。

チェックリストなりを使って「忘れ物をする自分」は受け入れられないから「忘れ物をしない自分」に作り変えようというわけです。

もちろんそうしなければ「自分」を受け入れてくれない人はいるでしょうし、そういう努力によって受け入れてくれる人も現れるでしょう。

でもその「条件次第」で人を受け入れたり受け入れなかったりする人というのは、

  • 毎回100点を取れたら「いい子」で、取れなかったときはダメな子

と自分の子供に言えるような人なのです。

▼編集後記:
佐々木正悟


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