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ノートについて考えるとき僕が思い出すこと


大橋悦夫『すべてはノートからはじまる』という本を読んで、改めて「ノート」というものについてふり返ってみる。

最初にノートに触れたのは小学生時代だったと思うが、思い出せることがほとんどない。

中学、高校と、当然ノートを使ってきたはずだが、おそらくすべて捨ててしまった。

残す価値が感じられなかったからだと思うが、一方で30年たった今でもずっと残してある「ノート」がある。

それは、高校2年から3年にかけて、日本史科の教師のすすめで作った「日本史まとめ」。

記憶したければ、すべて書き出して一望できるようにする

その「日本史まとめ」とは以下のように時代ごとにB4版の紙に年表をベースに「情報」を書き込んだもの。

これは「昭和I」というタイトルのとおり昭和の前半部分(1925~1945)。

紙に書いているので、後から情報を書き足していくと次第にスペースが足りなくなる。

「ここに書き込みたいのに…」と行き詰まるたびに、また白紙から作り直す。

作り直すたびに以前の学びを活かし、必要な場所に必要なスペースを空けるようになるため、要領よく書き込めるようになる。

上記の写真は3度目の最終バージョン。

デジタル時代の今から考えると「ドラッグすれば済む話なのに…」とその非効率っぷりに愕然とするが、当時の自分としては、作り直すたびに確かな“学び”の手応えがあった。

同じことを同じ場所に何度も書くので、どの場所に何が書いてあったかを自然と覚えることができる。

一望できる地図を作っていたことになる。

問題集や模試で新たに知った知識をどんどん追記していくことで、地図が補完されていく。

全体を一望できるようにすることで、初めて各部分が理解でき、さらに部分と部分の関係も明らかになる、という効用をこの作業を通して体感できた。

「知的生産」という言葉を知ったのはその3年後の1994年だが、当時取り組んでいたこの作業はまさに知的生産であった。


「日本史まとめ」は各時代ごとに全部で16枚作ったが、今でも捨てずに残しているのは人生最初の「知的生産」の成果だからだと思う。



記憶からの書き起こし

1992年からの大学時代はもっぱらルーズリーフを使っており、ページの順番をあとから自由に並び替えできる利点を気に入っていた。

「作り直し」をしなくて済む。

にもかかわらず、大学卒業後の1996年に最初入ったSier会社で再び綴じられたノートを使うことに。

新人研修で最初に受けた指示が「大学ノートを用意せよ」だった。

その用途は、社長自らが毎日のように行う講義をすべて書き写すこと。

しかし、講義中は、いっさいメモを取ることは許されず、ひたすら聴くことに集中する。

講義中は両手はグーにして膝の上に置き、とにかく聴き続ける。

講義は、数百名ほどの中小企業の社長のスケジュールの合間を縫うようにして一日に2~4回ほど行われ、10分で終わることもあれば3時間続くことも。

話が終わると、社長は研修室を出て行く。

我々研修生は即座にノートを開き、社長の話の書き起こしを始める。

通常、書き起こしといえばテープなどの記録メディアに録音しておいた音声を聴きながら一字一句書き起こしていく作業を指す。

当時のこの研修における書き起こしは、脳内の記憶領域に一時的に保持しておいた社長の話を、あたかも脳内でテープを再生するかように再現しつつ、これをノートにペンで書き起こしていく作業。

自分の言葉に置き換えることなく、要約することなく、社長の言い回しそのままに一字一句、始めから終わりまで書く。

もともと原稿のないスピーチから文字原稿を起こすイメージ。

情報はひたすら時系列にシーケンシャル(逐次)に書き込まれるため、むしろ綴じられたノートの方が都合がよい。

この“修行”を通じて、人は誰かから聞いた話を無意識のうちに自分の文脈に寄せて都合良く解釈してしまうことに改めて気づかされた。

自分が理解しやすいようにノートの記述を並び替えたり書き直したりといった編集をすればするほど、オリジナルの真意が損なわれていく。

しかし、編集をしなければ理解が深まらず、従って記憶にも残りづらい。

では、どうすればいいか?

人は「ノート」越しに世界をとらえている

2021年の今、『すべてはノートからはじまる』を読み始めたとき、最初に思い浮かんだのは、

  • 「脳とノート」

という、ダジャレのようなフレーズ。

意味するところは「脳と対象の間には必ずノートがあるはず」ということであり、誰しもがノートを通して世界を認識している、ということ。

ここでいう「ノート」とは物理的な存在としての紙のノートではなく、脳の外にあるあらゆる記録装置の総体を指す。

脳(記憶)があり、その外側にノート(記録装置)がある。

「日本史まとめ」も「ルーズリーフ」も「講義の書き起こしノート」もすべてノート。

最近でいえば、EvernoteやWorkFlowyやScrapbox、あるいはこのブログもまたノート。

このようにノートは様々な形をとって自身を取り巻いているのだが、特に意識を向けない限りはそれは無色透明であり、その存在を意識することはない。

しかし、世界を認識しようとするとき、必ずこの無色透明のパネル越しに目にすることになるため、網膜に映る像はおのずとこれらのフィルタがかかる。

これが先に書いた「無意識のうちに自分の文脈に寄せて都合良く解釈してしまう」メカニズム。

人は世界をありのままにとらえることはできない、だからこそ

以下は、「脳とノート」というフレーズを思い浮かべたとき、同時に脳裏に浮かび上がったイメージ。

人は誰しも、無数のノートに取り囲まれている、言ってみればノート・スフィアの中にいる。

最初は無色透明だったノートパネルも、少しずつ知識を得て、これを書き込んでいく(本書で言うところの「ノーティング」していく)うちに、世界の認識も変わっていく。

これは、新しい偏見をどんどん書き足していっていることになる。

「何も書き込まなければありのままの世界をフラットに見ることができたのに…」

と、つい考えそうになる。

でも、ここで何を書くかがその人の在り方を決めることになり、ひいてはその人の存在価値になる。

世界がどう見えるかは、世界をどのようにノーティングするかによってどんどん変わっていく。

こうして徐々に書き込みが増えていくノート・スフィアは、その人の世界観となり、本書で言うところの「注意の防波堤」として機能するようになる。

自分だけのノート・スフィアを構築していくことで、自分の持つビジョンもまたこの球体の内部に投影されることになる。

このビジョン越しに世界を目にすることで、自分が世界に対してどのように関わっていけばいいのかが、その重ね合わせの中に見出せるようになるかもしれない。

すべてはノートからはじまる。