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いっさいの解釈を排したインプット方式の効用



大橋悦夫今から24年前の1996年4月1日は月曜日で、その日を境にそれまでの生き方を根底から改めさせられることになりました。

大学を卒業したその年、独立系システム開発会社(いわゆるSIer)に入社。本社が大阪にあったために22年間住んだ東京を離れての初めての一人暮らし。JR福知山線の某駅にある会社の寮から新大阪にあるオフィスへの通勤。

SIerの新入社員研修なのに技術系の話はほとんどなく、社長自らが教壇に立ち、ほとんど何も見ずにひたすら話し続ける講義。

面食らったのは、彼の話を聴いている間はいっさいメモを取ることが許されなかったこと。

記憶からの書き起こし

両手はグーにして膝の上に置き、講義中はとにかく聴き続ける。

講義は、数百名ほどの中小企業の社長のスケジュールの合間を縫うようにして一日に2~4回ほど行われ、10分で終わることもあれば3時間続くことも。

話が終わると、社長は研修室を出て行く。

我々研修生は即座にノートを開き、社長の話の書き起こしを始める。

通常、書き起こしといえばテープなどの記録メディアに録音しておいた音声を聴きながら一字一句書き起こしていく作業を指す。

当時のこの研修における書き起こしは、脳内の記憶領域に一時的に保持しておいた社長の話を、あたかも脳内でテープを再生するかように再現しつつ、これをノートにペンで書き起こしていく作業。

自分の言葉に置き換えることなく、要約することなく、社長の言い回しそのままに一字一句、始めから終わりまで書く。

もともと原稿のないスピーチから文字原稿を起こすイメージ。

そんなことが可能なのか?

そもそもなぜ、そんなことをするのか?

解釈の余地をゼロにする

人が誰かの話を聞いているとき、自然と「解釈」しながら聞いている。解釈してしまう。

従って、記憶に残るのはその人の話した“全文スクリプト”ではなく、自分が解釈した意味内容となる。

“全文スクリプト”に比べればコンパクトになっているので、持ち運ぶのにも取り回すのにも都合が良い。

一方、これを誰か別の人に伝えようとしたとき、最初の話とは少なからず別のものに変容してしまっている。

相手の話を聴きながら、頭の中で、

  • 「あぁ~、要するにこういうことね」
  • 「はいはい、例のアレね」
  • 「一言でいうと○○だね」

という具合に、なるべく記憶領域を消費せずに済むように、既存の知識で置き換え可能な、言ってみればジェネリックな知識素子を使って圧縮して保持しようとする。

しようとしなくても、そうしてしまう。

その結果、この記憶はJPEG画像のような不可逆圧縮となり、最初の話し手の意図が抜け落ちていたとしても、これに気づくのは難しくなる。

一方、いっさいの解釈をせずフラットに相手の話を聴き続け、これを一字一句文字に再現できたとしたら、その全文スクリプトは冗長なものにはなるものの、言わばRAWデータが得られる。

いったんRAWデータが得られれば、これをもとに必要に応じた形式に加工出力することは容易になる。

そんな、いっさいの解釈を排した聴き方は、しかし、著しい精神的消耗を伴うものであるため、少しでも気を抜くと馴染みの不可逆圧縮方式に戻ってしまう。

それでも数ヶ月たった頃には、ノートに向かった途端に社長の最初の一言が脳内で再生され始めるほどに適応していたことに自分でも驚くことになる。

つまり、この講義は数ヶ月たった7月に入ってもまだ続いていたのである。

#1460日間の記録

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