『ファミコンに育てられた男』という本に「ゼルダ芸人」と「アトランチス芸人」という話が載っていました。
そもそもゼルダとアトランチスはいずれもファミコンのゲームタイトルです。
- ゼルダ → ゼルダの伝説
- アトランチス → アトランチスの謎
本書によると、いずれも「すさまじく謎解きが多いゲーム」という共通点があるのにも関わらず、ゼルダは「神ゲー」、アトランチスは「クソゲー」扱いになりがち。
ここからの展開がふるっています。
嫉妬はほんのわずかな落差から生じる
少し長いのですが、引用します。
ゼルダ愛もアトランチス愛も同じくらいある僕としては、納得がいかないです。
攻略法を発見して友達に教えてあげたときも、ゼルダは尊敬を集めて感謝されたのに、アトランチスのときはリアクションが薄かったですね。この違いに、当時から違和感を感じていました。
それで、30年以上経過して達した結論は、「ゲームには貴賎があって不平等がある」ということです。
ちょっと恨み言を言わせてもらうと、これは芸人の世界も一緒で、僕がなぜR1ぐらんぷりの決勝に行けないのか疑問です。なぜ、いつも2、3回戦で落ちてしまうのかと。ま、力不足ということなんでしょうが、予選でも客の笑いの量は一番多かったのに落とされたことが何度もあります。
忘れられないのは、ある年の予選で、確実に僕が一番受けていたのに、次に出てきた芸人(そんなに受けていなかった)が、なぜか準決勝に行ったことです。誰かって? 狩野英孝さんですよ(笑)。
結局、僕は“ゼルダ芸人”ではなくて、“アトランチス芸人”なんですかね。
明らかに自分の方が優れているのに、あるいは早く始めているのに、なぜイケてないあいつが! なぜ後から始めたアイツが! 自分よりも評価されているのか!
というわけです。
嫉妬というものは、こうしたわずかな落差のあるところに生じるようです。
言い換えれば、圧倒的な落差のあるところには生じ得ないということです。
たとえば、イチロー選手が年俸20億円をもらっていても、これに嫉妬する人はいないでしょう。
そう考えると、もしいま誰かに嫉妬心を感じていたとしたら、その対象との落差は実に小さなものであり、そんな僅差にいちいち目くじらを立てているのは実に「ちっちぇ」ことになります。
チンパンジー並みです。
二つ目の実験では、真ん中をガラス窓で仕切った部屋に二頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与える。
このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べる。ところがそのうちの一頭のエサをリンゴに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手に
していたキュウリを投げつけて怒り出す。自分のエサを取りあげられたわけではないのだから、本来ならここで怒り出すのはヘンだ(イヌやネコなら気にもしないだろう)。
ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せない。
これはチンパンジーの社会に平等の原理があることを示している。自分と相手はたまたまそこに居合わせただけだから、原理的に対等だ。自分だけが一方的に不当に扱われるのは平等の原則に反するので、チンパンジーはこの“差別”に抗議してキュウリを壁に投げつけて怒るのだ。(p.254)
『「読まなくてもいい本」の読書案内』
では、どうすればいいか?
ここから脱するには、落差を拡大していくしかありません。
すなわち、「得意」をとことん突き詰めていくこと、ではないかと。
この話は以下の記事に続きます。
» 自分の「得意」に一点集中しつつ、自分の「居場所」もきちんと確保するために