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自他を超える知的生産と情報整理



倉下忠憲先週書いた「ひと味違うブロガーを目指すための一冊」と、R-styleに書いた「誰ガ為のScrapbox」の二つの記事には面白い共鳴点があります。

「自分のため」と「他人のため」のゆるやかな越境です。

今回はその話を掘り下げてみましょう。

内向きの情報整理、外向きの知的生産

一般的には、情報整理とは、自分が情報を使えるようにするための行為を意味し、知的生産とは、新しい何かを生み出してそれを他の人に伝える行為を意味します。

しかし、この二つは基本的なところで似ています。「ひと味違うブロガーを目指すための一冊」では以下のように書きました。

情報整理とは、自分で情報を使えるように情報群に一定の系を与える行為ですが、それを発信することによって、系を持った情報群は他の人にも使えるようになります。つまり、情報発信とは、他者にとっての情報整理でもあるわけです。

梅棹忠夫氏は、知的生産を以下のように定義したわけですが、

知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ

この「ひとにわかるかたち」に為すために、ある種の情報整理が必要となるわけです。言い換えれば、自分のために整理することと、他の人のために整理することはつながっています。

他人/自分のため

さらに「自分」の多相的な在り方も関係します。

以下は「Scrapboxをリンクベースで記述する」より。

他の人が読めるように書いたコードは、未来の自分も読みやすい。なぜなら、今日の自分と一ヶ月後の自分は、短期記憶の中身が違っているから。

他の人に使いやすいように書かれたコード、あるいはドキュメントは、そのことをすっかり忘れてしまった自分にとっても使いやすいものとなります。

ブログを運営されている方ならば経験があるかもしれません。自分が調べたこと、試したことを、他の人にも共有しようと書いたブログ記事が、数ヶ月後自分が検索したときにひょっこり現れてたいへん助かった、ということが。

そのとき、要点を押さえた記事を書けていたら、きっと過去の自分に感謝することでしょう。

こうしたことを指して、「自分は、(自分の)備忘録のためにブログを書いているんだ」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、それはあまりに単純化した表現でしょう。人間というものは、自分のためであれば簡略化してしまうものです。

そのブログ記事が、「他の人が読んでも理解できるように」書かれていたからこそ、未来の自分が役立てられたのです。はじめから自分のためであったらもっと雑に書いていたか、そもそも書かなかったことすらありえます。

つまり、「他人のためでありながらも、むしろそうであるから自分のためにもなっている」というややこしい状況が発生しているのです。

そしてそれは、「明日の自分は、他人と同じ」という一つの文から導かれます。

ハッシュタグではなく説明する

Scrapboxのページの書き方にも同じことが言えます。

二つのページを見比べてください。

Image from Gyazo

Image from Gyazo

上のページはハッシュタグで分類してあるだけであり、その分類基準がどうなっているのかもわかりません。内容も、おおよそが掴めるだけで、具体性は皆無です。

それに対して、下のページは「説明」があります。その説明は、それを書いたときは自分で「わかっている」ことですが、あえてきちんと文章で書くことで、こうして他の人が読んでも、あるいは未来の私が読んでもわかるページになっています。

説明(explanation)、つまり外に向けて整えることが、自分でその情報を使うために役立つのです。

さいごに

  • 「これは自分のため」
  • 「これは他人のため」

という切り口はあまりに単純にすぎます。「自分のためにやっていたら、他人のためになった」とか「他人のためになるようにやっていたら、自分のためにもなった」といった、いささかややこしいことが結構起こりえるのです。

こうしてブログを書くことも、やっぱり自分のためであり/他人のためでもあります。安易に切り離せるものではありません。

▼今週の一冊:

日本人はいかに手帳と付き合ってきたか、そしてこれからの手帳の在り方とは。手帳評論家で名高い著者による現代日本の手帳論です。


▼編集後記:
倉下忠憲



現在、92.7%くらいの完成度です。もちろん「初稿」の完成度ですが。あと数日頑張ればようやく頂きにたどり着けそうです。頑張ります。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中