著者としては秘かに念頭に置きつつも、それ自体の話題については本の中で触れない、というものがしばしばあります。
私自身の例としては『スピードハックス』の中で「タスクシュート」について触れてないことがそうですし、『すごい手抜き』の中でこれまた「タスクシュート」についてはほぼ触れずじまいであったこともそうです。
今日話題にしたいのはその『すごい手抜き』でどんなふうに「タスクシュート」をずっと念頭に置いていたか、ということについてです。
私たちはどのくらい妥協できるのかを実はまったくわかっていない
そもそも妥協なんてしたくない、という人が実は大勢います。
しかし、社会人になる以前、そもそも小学校の高学年辺りから、現実に妥協せずにできることというのは、ほぼまったくないということを私たちは知ります。
妥協の仕方を学ばない人は、現実においてまったくなにもしなくなるという選択を選ぶ人が少なくありません。これは人間の不可解な特徴の一つだと思います。完璧にできないなら、やる意味はない、と思ってしまうわけです。
これほど極端でないにしても、完璧主義的な主張の背景には必ず、現実的には1度も出現したことのない「空想上の理想的な自己像」というものがあって、その自己像ほど有能ではない現実の自分が、苦痛の種になるわけです。
傍目から見るとこれはなんとも不合理な考え方なのですが、十分に聡明な人でも、この件となるとなかなか頑固で、ちょっとやそっとの「もっともらしい説得」など受け付けてはもらえません。
タスクシュートはこれに切り込むツールなのです。わたしがタスクシュートを、いまここでは時間術として話していますが、TaskChuteやたすくまなどのツールとセットでなくては威力を発揮し得ないと強調したいのは、「完璧主義的理想像」を突き崩す上で、ツールとして具体的に切り込まないと、非力だと思うからです。
タスクシュートに残念感を抱くというのは、現実の自分が理想のスーパーマンほどでないことが、記録に残るせいです。
しかし一方で希望もあるのです。
タスクシュート上の「残念な現実の自分」というのは、「なにもしなかった自分」とはまたちがっているはずです。タスクシュートをきちんと使えば、朝から予定どおりに行かず、リスケに次ぐリスケで、あちこち道に迷いつつ、ようやくゴールに倒れ込んでいる自分の姿が残るはずです。
これは、朝の最初に「理想のコース」から外れて「失敗」し、結果としてその後ずっと寝たりネットサーフィンしたりしていただけの自分とはまったくちがいます。理想の自分の半分、悪くすると1/4程度しか生産的ではないかもしれませんが、0ではありません。
0は、妥協した結果ではなくて、なにもしなかった結果でしかありませんが、1/4の成果を上げたのは、妥協の産物です。もう少し努力すれば1/3くらいまで持ち上げられるかもしれないのです。
妥協点を見つけるということは、現実に成果を上げるのだから、空想の自分の姿より尊いものだと思います。