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「なかなか取りかかれない仕事」に取りかかるためのヒントはチョコレートとラムネにあった



大橋悦夫まとまった時間が取れないから今はこの仕事に取りかかれない。いや、取りかかれないことはないけれども、いろいろなことを考慮すると、いまこれに取りかかるわけにはいかない──。このような葛藤が日々頭の中でくり返されていますが、これを続ければ続けるほど身動きが取りづらくなるような気がします。

いや、実際に取りづらくなっています。言ってみれば、選り好みをしているわけで、仕事はいっこうに進まないのに時間だけは無情にも確実に進んでいってしまうからです。

ところで、話は大きく変わりますが、以下は最近何気なくコンビニで買ったチョコレートの外袋です。


「手につきにくい、折りたたんで持ち歩きやすい」という“メリット”がうたわれていますが、特にチョコレートとしての良さ(おいしさや誇るべき成分)などは記載されていません。

それでも僕はこのチョコレートを買い求めました。

  • 「手につきにくいというのは良いなあ、確かに手につくのは困るし」
  • 「折りたたんで持ち歩けるというのも便利、ちょっとずつ食べられるし」

という、うたわれている“メリット”がストレートに心に突き刺さったから、ではありません

何でもいいからとにかくチョコレートが食べたかったのです。チョコレートであれば何でも良かったのです。

「何でも良い」はずなのに、いや、「何でも良い」からこそ、チョコレート的な属性とは違う属性で何か際立つものをあえて選ぶのかもしれません。つまり、チョコレートとしての美味しさはすでに「どんぐりの背比べ」状態になっており、それを選定基準にするには微差すぎるわけです。

その気がなくても買ってしまう

そういえば、最近買った以下のラムネもそうです。

「ラムネといえば分厚いコインのような形状をしているものだが、これはなんと“まんまる”なのか!」という新鮮さがあったため、思わず手に取ってしまったのです。

このときはラムネなど食べたいとはこれっぽっちも思っていなかったにもかかわらず、単に「目に付いた」から、カゴに入れてしまったのです。



味はふつうにおいしいラムネでした。ちなみにラムネとは「レモネード(lemonade)」のなまりです。豆です。

仕事の内容よりも、その扱いやすさがタスク実行の決め手になる

なかなか取りかかれない仕事にも同じことが言えそうです。「取りかかりやすい仕事」と「取りかかりにくい仕事」の違いはほんのわずかしかない、微差だと思うのです。

少し前に出張があり、新幹線で移動するために東京駅におもむきました。発車時間まで20分ほどあったので、ホームに上がる前に一仕事してしまおうと思い、待合スペースのイスに座ってノートPCを取り出しました。

後片付けやトイレに寄る時間も考えると、作業できる時間は正味15分というところ。これくらいの時間であれば本を読んだりSNSをチェックしてつぶせてしまう時間です。

でも、その日は朝から執筆作業に追われていて、出発までに片づけておきたかった事務作業が残っていました。そこで、この15分をその事務作業にあてることにしました。



事務作業は5分しかなくても取りかかれるし、仮に2分たったところで電話がかかって来たり、誰かに呼ばれて離席したとしても、後から続きを再開するのは難しくないものです。

一方、執筆作業は5分しかなければ取りかかる気にならないですし、仮に取りかかったとして2分たったところで割り込まれたら、その時に頭の中にあったアイデアやパッションは、ふっと消えてしまって、後からまったく同じ状態を再現するのは難しいでしょう。

つまり、事務作業は「手につきにくい、折りたたんで持ち歩きやすい」一方で、執筆作業は「手についたらなかなか落ちないし、一度開いたら途中で折りたためない」のです。

でも、同じ執筆作業であっても「その場で書き切らなくてもOK」という条件であれば、15分でも執筆作業に取り組めます。

例えば、1時間程度の「まとまったひと続きの時間」が確保できなくても、10分とか15分といった「小分けにされた時間」がいくつか手に入るなら、この枠に合わせて執筆作業を砕いておくことで、パズルのピースのようにはめ込むことができます。

それが、以下の記事で書いた「少しずつ進める」ということです。

» 締め切りギリギリになるまで仕事に手を着けられないループから抜け出すにはどうすればいいか?

「少しずつ」とはどれぐらいなのか?

「毎日無理なく続けられる程度の分量」ということになります。

最初はその適量が見極められないので、試行錯誤の期間が続きます。続けているうちに慣れも手伝って最初よりも長く、あるいは多くこなせるようになりますので、記録をとりながら調整していきましょう。

例えば、ジョギングの習慣を始めた人が、初日はそろりと1キロだけ走ってみて、徐々に2キロ、3キロと距離を伸ばしつつ、ジョギングにかけられる時間の上限と相談しながら、時間を変えずにペースを上げるなどして、調整していくイメージです。


一本のまとまった記事にはならないものの、記事の一段落分くらいの文章は書き上げることができるので、こういった“粒”を一つずつそろえていくことで、いつしかまとまった記事を作り上げることができます。

この、まんまるのラムネのような“粒”は『知的生産の技術』で言うところの豆論文にあたります。

発見の手帳

わたしたちが「手帳」にかいたのは、「発見」である。まいにちの経験のなかで、なにかの意味で、これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。それも、心おぼえのために、みじかい単語やフレーズをかいておくというのではなく、ちゃんとした文章でかくのである。ある意味では、それはそのままでちいさな論文──ないしは論文の草稿──となりうるような性質のものであった。

すくなくともそういう体裁をととのえている。そのような豆論文を、まいにち、いろいろな現象をとらえて、つぎつぎとかいてゆくのである。たまってみると、それは、わたしの日常生活における知的活動の記録というようなものになっていった。

むしろ時間が限られているからこそ、「新幹線の時間までの15分で“1粒”だけ仕上げよう」というゲーム感覚で取り組むことができます。

「切羽詰まったこの状況では、まとまった文章を書くわけにはいかないが、豆論文なら書いてしまえそうだ」ということでうまい具合に“枠”にスポッとはまり、仕事は確実に進みます。



ちなみに、「お腹いっぱいのこの状況では、板チョコ1枚をまるまる食べるわけにはいかないが、“手につきにくい、折りたたんで持ち歩きやすい”チョコレート1粒なら気軽に口に放り込めそうだ」ということでうまい具合に“別腹”にすっぽりおさまり、体重は確実に増えるので注意が必要です。