※当サイトはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています。

なぜ、『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』のか?



大橋悦夫6月25日(土)に「タスクシュートとマインドフルネス」という対談イベントを開催したのですが、その中で話したことについて、当日ご参加いただいたF太さんから以下のような質問をいただいたので、回答します。



同じ映画を繰り返し観る

まず、このご質問の前提としてイベントの中で映画について以下のような話がありました。

  • 一度目は観客目線として純粋に楽しむ
  • 二度目以降は作り手目線で分析的に観る

僕自身、気に入った映画については、二度、三度とくり返し観るのですが、一度目と二度目以降については見方が変わります。二度目なので展開が分かった上で観るためにおのずと見方が変わることもありますが、意図的に変えてもいます。

意図的に変えるには、問いをもったうえで観ること。例えば、「なぜ、このシーンを最初に持ってきたのだろうか?」といった問いです。

問いは一度目の鑑賞中に思い浮かぶこともあれば、一度目を観終えた後にふと思いつくこともあります。

さらに、二度目、三度目と重ねる中でわいてくる問いもあります。

あるいは、別の映画を観ているときに、ふと思い浮かぶこともあります。例えば、シリーズもののパート2を観ているときに「この役者はパート1ではどのシーンから登場し始めたのだっけ?」といった疑問が生じたときや、「もしかして、この英語表現は独特の含意があるのかも? 同じ表現を使っていたあの作品をもう一度観てみよう」といった符合を感じたときなどです。

かくして、わき出てくる問いがなくなるまで、時間のある限り、くり返し見続けることになります。

枠が決まっているがゆえに

映画は2時間前後という枠が決まっています。どんなに長い話であっても、何らかの方法でこの枠内に収める必要があります。どこをどのように削るか、あるいは引き伸ばすか。それが、監督や脚本家の腕の見せ所。

原作がある場合、原作を知っている人には「あぁ、やはりこのシーンは省略されたな」といったふうに“加工の跡”が明らかになるのですが、そうでない場合は「夜のシーンの直後に朝のシーンが来た。これは翌朝なのか、それとも数日後なのか?」といった状況把握が必要になります。

たいていの場合、そのためのヒントがちりばめられているので、翌朝なのか数日後なのかは自明であることが多いのですが、あえてミスリードを誘う場合もあるので油断できません(それがいわゆる「どんでん返し」のカラクリになることが多いので)。

いずれにしても、作り手側が鑑賞者に伝えたい何かを規定の枠内で過不足なく伝えきるというミッションの達成度合いが鑑賞後の満足度に直結します。同時に、「何がこの満足度をもたらしたのか?」という問いから、そこに再現性への探求が始まります。

どこまできちんと説明するか、どこから先は鑑賞者の想像に委ねるか。そのさじ加減の妙です。映画に限らず、およそ人に何かを伝えようとしている人にとっては、この塩梅は垂涎の的となります。

例えば、『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』という本にある以下のくだり。

それでも飛行機を完成させて、どうにか飛び立ちます。地上20~30メートルをヨタヨタしながら無事に飛んで、オアシスにたどり着いて、みんなでオアシスに飛び込んで「やったやった」と大騒ぎ。

アメリカ人もドイツ人も顔を見合わせてにっこり。いちおう、めでたしめでたしで終わるんですが、僕は映画を見ながら別のことを考えました

本物の飛行機を作ったことがないのは分かっているのに、それを伏せて「大丈夫だ」と言い続けて、ほかの連中をみんな騙しきった。これはつまり、人の上に立った中間管理職のマネジメントの話だろう、と。

※太字は大橋

このくだりは、「飛べ!フェニックス」という映画を題材にしているのですが、太字にした「僕は映画を見ながら別のことを考えました」という部分がまさに作り手の(やや手の込んだ)メッセージといえます。

こうした、ふとした連想を喚起せしめる力。これをどうにかして自分の中に取り込みたい。それがゆえに映画をくり返し観続けているのだと思います。

『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』の中でも著者の押井守さんは「映画はケーススタディです(p.170)」と言い切っています。すなわち一般化を試みることで自分なりの再現性を追及するわけです。



映画の楽しみ方について言及している過去記事

最後に、映画(ドラマを含む)の楽しみ方について言及している過去記事をご紹介します。

「終わりの時間」を自分で決めると、そこでちゃんと終えられる

24時間もあったら間延びしてしまうのではないか、と思いきや、次々と事件やトラブルが起こり、展開は非常にスピーディー。

1話あたり1時間分(放映時間としては45分)で、全24話から成るのですが、1話だけのつもりが、続きが気になるために、次々と観てしまいます。

タスク管理的にはとても悩ましいドラマです。

現在シーズン9まで制作されていますが、すべてのシーズンを最低2回以上観てきて、ついつい引き込まれてしまうその魅力の原点には何があるのかを考えてみました。

その結果、次の4つに整理できました。


「だから楽しいじゃないですか、仕事って」

人は、放っておくと学習能力を駆使して、より安全な方法を採ろうとします。そして安全が確保される代償として「飽き」がモレなく付いてきます。安心は飽きの始まりと言えます。

そこで、この安全が確保されようとしているタイミングで、いかに“自分”を出し抜くか、すなわち「こうすればうまくいくんだ」という自信をつけつつある自分に対して、「でも、こういう場合はどうするんだ?」「本当にそれでいいのか?」という詰問をつきつけ、どこかしら「まだ終わりじゃないぞ」感を演出できるかが、次の“チャプター”に進めるかどうかを決めるのだと思います。

「24 -TWENTY FOUR-」や「Prison Break」などの連続ドラマについつい引き込まれてしまうのは、この「まだ終わりじゃないぞ」が絶妙なタイミングで程よく組み込まれているからでしょう。


思考や行動の“跡”をつけておく効用

映画やドラマにおける伏線がことさらに印象に残るのと同様に、我々の前を通り過ぎていく中に、どうしても気になる“顔”があるのなら、それをそのままにするのは、その後の展開のきっかけを失うことになるかも知れません。

意味は分からなくても、とりあえず書いておくことで、それを生きながらえさせることができます。


仕事術の実態は「再現性」の追求

何か文章を書こうとする時、そこには必ずコンテクストが生まれます。自明の場合もあれば、読み手にゆだねられる場合もあります。問題は、内容の解釈がコンテクストによって著しく左右される場合です。

例えば、描写される対象に複数の立場がある場合、どの立ち位置から書かれているのかが明確になっていなければ、書き手の心境に同期(tune)するまでに時間がかかりますし、最後まで同期できずにすれ違いが生じてしまうかもしれません。それゆえ、読み手に対して、合わせるべき“周波数”をコンテクストとして提示するわけです。たとえ相手が未来の自分であったとしても、です。

映画を観ていると、この「“周波数”の提示」が非常に巧みに行われており、それがあるために、物語の世界に引き込まれるのだと思います。特に、会話によってそれは形作られます。

例えば、次の会話。

「それにしても、このプロジェクトやばいよね」
「まぁ、オレたちががんばったところで状況は変わらないわけで…」
「そうそう、最終的には何とかなるでしょ」
「そうかなぁ・・・・」

架空の会話ですが、ここには3人の登場人物がおり、セリフだけでそれを判別することができます。そういう意味では誰かの発した言葉、あるいは関係する人物との会話を、そのままの形で文章化しておくことは、コンテクストを再現する上では有効であると言えそうです。


参考文献: