前回の続き。
時間がたてば記憶は風化し、たとえ自分の書いた文章であっても、字面以外の周辺情報は肉が朽ち果てるかのように消え失せてしまいますから、後に残った白骨テキストだけを見て、それが“生きていた”時の様子を再現できるようにしておく必要があるわけです。
ルール化すれば、次の3つです(実際にこれらのルールを意識してはいませんが、どれも無意識に実践しているところではあります)。
- 1.「今の自分」にしか分からない言葉は一般語に置き換えること
- 2.分かりきったコンテクストでも書いておくこと
- 3.なるべくメタファーを使うこと
今回は2と3について。
2.分かりきったコンテクストでも書いておくこと
何か文章を書こうとする時、そこには必ずコンテクストが生まれます。自明の場合もあれば、読み手にゆだねられる場合もあります。問題は、内容の解釈がコンテクストによって著しく左右される場合です。
例えば、描写される対象に複数の立場がある場合、どの立ち位置から書かれているのかが明確になっていなければ、書き手の心境に同期(tune)するまでに時間がかかりますし、最後まで同期できずにすれ違いが生じてしまうかもしれません。それゆえ、読み手に対して、合わせるべき“周波数”をコンテクストとして提示するわけです。たとえ相手が未来の自分であったとしても、です。
映画を観ていると、この「“周波数”の提示」が非常に巧みに行われており、それがあるために、物語の世界に引き込まれるのだと思います。特に、会話によってそれは形作られます。
例えば、次の会話。
- 「それにしても、このプロジェクトやばいよね」
- 「まぁ、オレたちががんばったところで状況は変わらないわけで…」
- 「そうそう、最終的には何とかなるでしょ」
- 「そうかなぁ・・・・」
架空の会話ですが、ここには3人の登場人物がおり、セリフだけでそれを判別することができます。そういう意味では誰かの発した言葉、あるいは関係する人物との会話を、そのままの形で文章化しておくことは、コンテクストを再現する上では有効であると言えそうです。
3.なるべくメタファーを使うこと
上記とも関連しますが、メタファー(隠喩)を使うことによって、コンテクストの共有を素早く行うことができます。同時に、既存の“意味ランドマーク”を足がかりにできるため、記憶に残りやすいということもあるでしょう。まったく新しい概念であったとしても、既存の概念との位置関係を把握できれば、細かい番地まで覚えなくても「あぁ、郵便局の向かいのビルね」というエイリアスによって、“目的地”にたどり着けるからです。
「だらだら」は再現性ないところに生じる
以上、3つのルールに沿って自分の体験を文章の形で書き残すわけです。この過程で常に念頭に置いているのは、再現性の追求。
再現性とは、時を違えても、ある一定のやり方で取り組む限りは想定どおりの結果が得られることです。例えば、「ある操作手順を行えば、必ずExcelが強制終了する」という場合、そこには再現性があることになります。厄介なのは、「強制終了することもあれば、しないこともある」という“揺れ”のあるケース。こうなると、強制終了の恐怖におびえながらの作業になるため、効率が下がるのはもちろん、「できれば避けたい」と感じるようになるでしょう。
あるいは、定期的に繰り返される作業にも関わらず、毎回一からやり方を考える必要があるという状況もこれに似ています。やり方が確立していないために、自信が持てず、自信が持てないために、不安を覚え、不安から逃れるために、現実逃避が始まる、という玉突き脱線の引き金になりえます。
結果として「だらだら」という言葉で描写される状況に身を置くことになるのですが、言うまでもなく、決して心から「だらだら」したいと思ってそうしているわけではないでしょう。やり方が明確になっていて、同時にそのやり方で取り組みさえすればうまくいく、という自信があれば、「だらだら」は減るはずです。
つまり、再現性の欠落は、行動の抑制になりうるのです。
そんな、心ならずも「だらだら」してしまうという疲労骨折的敗北を繰り返さないようにするために、多くの人は仕事術を身につけようとするのでしょう。
もともとこのブログを始めたきっかけは、その日に自分が取り組んだ仕事について、たまたまであれ意図的であれ、うまくできた仕事のやり方があれば、これを忘れないようにするために書き残しておこうと思ったことでした。