子どもをあまりiPadに「はまらせたくない」とき。
iPadを厳しく禁じるより、何となくやめるように諭すことを粘り強く言ったほうが、功を奏することがけっこうあります。
どうしてそうなるかは、心理学でいうところの「認知的不協和」でとりあえず説明できます。
どんな遊びでおもちゃでも、子どもはそれをすると叱られるとなると、とりあえず手を出さなくなります。
しかし、叱られたことによって「やめた」となると、叱られなければやりたいわけで、iPadに魅力自体は全然損なわれていないわけです。
しかし、はっきり叱られてはいないけれど、親がグズグズ言ってくるからあまりいい思いをしないからやめたとなると、なぜやめたかがそれほどはっきりしないだけに、iPadの魅力も相対的にはっきりしなくなります。
- iPadは好きだけど、叱られたからやめた
- これといった理由は思い出せないけど、とりあえずやめてみた
後者のほうが、やめたものの魅力が失われやすくなります。
中途半端な魅力のほうが習慣が長続きする
このシゴタノ!の大橋悦夫さんは以前セミナーの質問に答えて「走るのなんて面白くも何ともないけど、走るのはずっと続いていますね」と言って質問した人を驚かせていました。驚かせる目的を持っていたわけでもないのでしょうが。
実は、こうしたことはよくあることです。
コツコツと何かをずっと続けるのが得意な人というのは、それで大いに楽しんでいるとは限らないものです。むしろ「それで、なんになるの?」という質問には答えにくいものです。なんになるかがはっきりしないから、むしろ続くのです。
「報酬」があれば続く、とは限らない
エサがでるから青信号をつつくハトの実験があまりにも鮮明に結果を出し続けたために、私達はなんでも行動を強化するには「報酬」こそが大事だと簡単に信じるようになってしまっています。
レオン・フェスティンガーの「認知的不協和」はそれに一石を投じたから大事な発見だったのです。人は、報酬があるから、やめてしまうということもあるのです。パンがもらえるから走るなら、走らずにパンをもらえる方法を考え出すかもしれません。
絵を描く子供らにご褒美を与えると絵が雑になったり書かなくなったりするレッパーらの実験は、教育界では人気で、やはり「携わることそれ自体を楽しまないと!」という人たちにうけるのですが、子どもを育ててみると、子どもというのはそこまで大人の期待に美しく応える生き物ではないように見えます。
私自身が子どもだったときのことを思い出しても、「お絵描きが好きなの?」と目を輝かせて聞いてくる大人には、困ったものです。「べつに・・・」と思わず口走って、相手をがっかりさせてしまうことがあったものです。
なぜがっかりするのかもわかりませんでしたが、なんと言っていいかがわからないのが問題でした。絵を描いてはいたものの、それが好きだか嫌いだか、よくわからなかったのです。
「ご褒美」が逆効果になることも
好きだか嫌いだか、あいまいなときこそ「認知的不協和」というのは威力を発揮するものなのです。あいまいだから、対比するものを置かれてみると、急にはっきりし始めてしまう。ご褒美をもらってしまうと、ご褒美に対比して、そこまで好きではない側面に気づいてしまう。
早起きをする度に思います。なぜこんな暗い時間から起きなければならないのかと。そしてタスクシュートを開いて、一日の予定を立ててみると、あまり無理せず休み休み仕事をして、いつもの通りの連載を書いて、テニスにもいって、ムスメの幼稚園の送迎なんかをすませるとなると、要するにいま起きてやっと、21時台に寝られると分かり、少しホッとする。
この「少しホッと」がわずかな報酬なのです。ただし、朝起きてタスクシュートを見ることによってしか、得られない報酬です。
このとき私はこう思います。
「私はタスクシュートを使ってこの時間に早起きするのが、なんだかんだ言っていいようだ」と。
そうやって何年も続いているのです。