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この本は、このシゴタノ!の大橋悦夫さんが各所でずーっと奨めていたにもかかわらず、なぜか途中まで読んで放り出しっぱなしだったのです。それを最近再読してみて「なるほど!」となりました。
そんな本なのですでに大橋さんがシゴタノ!でも紹介なさっています。でも私も今回いろいろ紹介したくなったので取り上げることにしましょう。
忙しくなると日記を付けたくなる!?
「日記」というものを自発的に付けたいと思ったことがない私にとって、大橋さんの「日記熱」にはしばしば興味を惹かれていました。
なんで日記なんか付けたくなるんだろう?
セミナーなどのうち合わせの折しばしば「日記の重要性」を大橋さんが語り出した機会を捉えては、いろんな質問を浴びせて「なぜ日記を付けるのか」を問いただしてきました。しかしそのたびに十分理解できる話だという気はしたのですが、自分が日記を付けようというところに至りませんでした。
日々の忙しさのなかに「自分が消えていく」ような恐怖を感じたからである。
※『日記の魔力』から引用。以下本エントリ内の引用は特に断らない限り同じ。
本書でまず惹かれたのはこの部分でした。大橋さんが以前まったく同じ話をしていたからです。本書著者の表さんの場合には講師業が忙しくなったときに日記を付けたといいますが、大橋さんは会社員時代に「仕事しかできないくらい忙しくなった」時に「それでも日記を付けることだけはやめなかった」らしいのです。
なぜそんなに忙しいときにわざわざ日記を付けるのか?
忙しいからこそ日記を付ける?
日記を付けて何がしたいのだろう?
「こんな生活を続けて、私に何が残るのだろう」
このように問いただした表さんは「日記を付けよう」と思い至ったというのです。
私にはここがよくわかりませんでした。「人に頼まれた仕事をして、給料をもらうばかりの毎日では、たとえどれほど収入を得て生活が充実していようと、自分というものがなくなっていく」というのはわかります。
しかし「日記を付ければそんな生活でも救いが得られる」というのがわからなかったのです。
「問いに答えた主体は自分である」と知るために日記に残す
私たちは通常、文章を書いたり人と話をしたりするとき文末まで考えてない。
この引用部は本書にとって必ずしも重要な箇所ではなく、さらっと書かれているのですが、私はこの一文のおかげでだいたいのところがつかめたような気がしました。この一文は大事です。私はこれで日記を付ける人の気持ちが理解できたのです。
忙しさによる充実感には虚しさがつきまとうというのは、たしかに私の若い頃の悩みの1つでした。学生時代に女の子とお茶をして話しこんだりすると、時の経つのを忘れるほど楽しかったのですが、ああいった会話には、何か不思議な空虚感がぬぐえないのです。
ごくごくつまらないただ1つの結論さえ出せずにいろんな話をして終わるというのが原因でした。話をしているときに結末まで考えないというのはまさに表さんの指摘の通りなのです。お茶する時の会話なら、もちろんそれでいいのです。
しかし本当につまらない問題1つとっても、私たちは「確かにこれが答えである」というところまでめったにたどり着けません。だからこそ「ごくつまらないように見える問題に答えを出す」ということは大事だし、実は重要視されてもいるのです。
私なりに例を挙げるなら「なぜ私は仕事をするよりマンガを読みたくなるのだろう?」とか「なぜある場所の掃除を先送りしたくなるのだろう?」とか「なぜタスク管理は役立つんだろう?」といったことです。これらに対する究極の答えを私はわかっていない気がします。けれどもこうしたことは(言論自由の日本にあっても)めったに話の種にすることすらできないのです。
なぜならこのように言えばたいていの場合
「答えは1つではない」
とか
「そんなことを考える間に掃除した方がいい」
といった「答え」が戻ってくることが多すぎるからです。「答えが決まっていない」というなら2つといわず3つといわず100個の答えを仮にでもいいのでその場で出して欲しいものです。
付け加えるなら「答えは1つとは限らない」とか「答えは決まっていない」といわれると今度は「なぜこの人は答えが1つとは限らないと答えたのだろう。誰かにそういわれたとしたら誰にいわれたのだろう?」という問いが私の中で新たに発生します。
発生した問いに答えようとするうちに新たに問いが立ってしまうわけです。こうしたことは延々と続き、たとえ忙しくなくても、そしてごくつまらない問いであっても、私たちはめったに答えまでは行き着けません。これが何とも言えない不充足感を残します。まして忙しくなると確かに「そんなことを考えている場合ではなくなって」しまいます。
忙しくなるということは、自分がもった疑問に答えを出せないまま、自分の要求はなおざりにしたまま、誰かの問いに答えたり、誰かの依頼(これも問い合わせですが)に答えてばかりで、自分がどんどんないがしろにされているような感覚にさいなまれます。
虚しくならないように自分が生きていることを実感するためには、自分が望んだことや疑問に思ったことを放置しないことです。それができないならせめて、要求や疑問に答えられるまでは忘れずにおくことです。
問い自体を忘れないこと。忘れずに何度も答えが出るまで繰り返し問いかけつづけることだ。
そのように疑問を保存しておくために、日記を付けるのだというわけです。こういう展開を経てようやく私にも得心がいきました。これと同じことは確かにやっていたからです。
もちろん自問に答えるだけでは多くの場合生計が立ちません。生計を立てるには他人の問いに答え、他人の依頼に応える必要があります。しかしそのような活動(=仕事)すらも記録に残すべきなのです。なぜならある人の「ニンジンが欲しい」という依頼に応えたのは「他ならぬ自分である」という記録を残さないと、やがて誰もがその事実を忘れてしまうからです。
結果として「誰かの依頼に応えた」という現実だけが幽霊のように浮かんでは、消え去ります。「私が買ってきた」「私が作った」「私が採ってきた」「私が考え出した」という事実の方は、全ての人の記憶から消え去ってしまうと、極端に言えば消失してしまうのです。
つまり「私が考えた・行動した」記録がなければ「私」はこの世から消えてしまっても文句が言えなくなるのです。「日々の忙しさのなかに「自分が消えていく」ような恐怖を感じた」とはそんなようなことだったのだろうと思いました。「その行為・思考の主体は私である」という事実をせめて「私だけでもおさえておく」必要が、虚しくならないためにあるのです。