脳の「記憶工場」として知られるようになった「海馬」の非常に重要な機能として、「空間記憶」があります。
「海馬」は決して「高次の脳」というわけではありません。ネズミなどにもある、比較的原始的な脳です。ネズミは海馬を使い「空間記憶」をフル活用します。安全な場所や、エサが手に入る場所を記憶できない生物は、生きていけないのです。
池谷裕二さんの『記憶力を強くする』という本によれば、タクシードライバーの「海馬」は通常の人よりも発達しているそうです。これは、風景の記憶や地図などを駆使し、空間記憶力を活用しなければならない職業だからでしょう。
同じタクシードライバーでも、ベテランと新人では、やはりベテランドライバーの海馬の方が発達しているそうです。このことから分かるのは、記憶力を使えば記憶能力は発達するし、そうしなければ発達しないという、シンプルな現実です。
記憶力を強くする―最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方 (ブルーバックス) 池谷 裕二 講談社 2001-01 by G-Tools |
歩きながら覚える
「空間記憶力」は誰もが持っているものです。というのも海馬は誰もが持っているもので、海馬を損傷していない限り、空間記憶力は機能するからです。
そして空間に関する記憶というのは実は、「空間を体験した」という記憶です。車で青山通りを走れば、青山通りの空間は、自動車の運転とともに記憶されるでしょうし、徒歩ならば、歩いた体験とともに記憶されるでしょう。
ですから大橋さんがオーディオブックを聴きながら駅まで毎日歩いていれば、駅までの光景が、オーディオブックの内容とともに、記憶されていくわけです。このときもし「やる気に満ちた気持ち」になっていることが多ければ、その感情も一緒に織り込まれます。
面白いことにこの「一緒くたにされた記憶」を思い出す際には、その空間を歩き直す必要はないのです。たとえばそのときに繰り返し聞いたオーディオ・ブックを聞き直せば、おそらく自宅で聞いていたとしても、駅までの光景が思い起こされます。「やる気に満ちた感情」も一緒に再生されるでしょう。
このカラクリを利用した記憶術も有名です。「位置法」というものです。拙著『ブレインハックス』に少し詳しく書いたのですが、簡単に言うと駅や自宅までの道順に沿って、ランドマークにこじつける形で、覚えたい単語や手順などを組み込んでしまうという方法です。
ブレインハックス-人生を3倍楽しむ脳科学(マイコミ新書) (マイコミ新書) 佐々木 正悟 毎日コミュニケーションズ 2007-07-11 by G-Tools |
「石狩山地、日高山脈、北上高地、奥羽山脈、出羽山地、阿武隈高地…」といった、登山家でもなければ興味の持てないような「山地、山脈、高地名」をこの順番のままに覚えろと言われると、かなり難しい。
位置法ではこれを、次のようなやり方で覚える。
たとえば、駅から自宅までの道順を利用するとすれば、駅を出てすぐの所に墓石屋がある。そこで「墓石」→「石狩」と関連づける。そして墓石屋の前を右に曲がると、値段の高いスーパーマーケットがある。これを「高い」→「日高」と関連づける。さらに、まっすぐ行くと交差点にぶつかる。交差点は「北が上」なので「北上」と関連づける。完全にこじつけで、訳がわからないようでも、自分に説明できるのであれば、かまわない。(p202)
こうしたことが出来るのも、情報量としては決して少なくはない「風景の知識」というものについて、私たちは特別な苦労もせず、ただ繰り返し歩いたり通ったりするだけで、覚えてしまうからです。それだけ、海馬が空間情報記憶に適した機能を、備えていると言えます。