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ひらめきを運び出す

ひらめいたときは「これは素晴らしいアイディアだ」と思っていたのに、文章にしてみたら実にしょうもないことだった、ということはよくある。

文章を書く、ということは頭の中にある「ひらめき」の水をバケツリレーで外に運び出すことだと思う。当然、リレーが長くなれば途中でこぼれたり不純物が紛れ込む可能性が高くなるわけで、文章の巧拙はこのバケツリレーのうまいへたにほかならない。

誰も汲み取ってくれない。自分で汲み出さないといけない。しかし、意識しすぎると汲み出すことそのものにとらわれる。順序正しく整然と、衒(てら)わず気負わず装わず、バケツリレーをしていることを当の本人が忘れてしまうくらいの無心でなければ、「ひらめき」は外に出て行かない。

書くべきテーマがひらめいて文章を書き始めると、目の前に具体的な文字列の世界が広がる。いま書いた文と頭の中にある「ひらめき」とがぴったり一致しているかどうかを確かめる術はない。それどころか、目から入ってきた刺激が「ひらめき」を変容させることもある。書いたそばから文章は独り歩きを始め、書いた本人に別の新たな「ひらめき」をもたらす。書き終えたところで、できあがった文章が果たして最初にひらめいたテーマ通りのものであるかはもはや自分でも確かめることはできない。

書いてみたらしょうもないことだった、のではなく書いている途中でバケツの中身がからっぽになってしまったのである。誰もが頭の中は素晴らしいアイディアでたっぷんたっぷんしている。ただそれをうまく運び出せない。時折、うまく汲み出せたりもする。

文章は「水物」である。