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計画の中の「遊び」

自動車のブレーキには「遊び」と呼ばれる「機能しない余地」がありますが、ああいうものをわざわざ用意しておくのは、機械ではない人間が自動車を制御するからでしょう。

私の知る限り、人は自分で立てた計画であっても、よく「脱線」します。やるべき時が来ても仕事に取り組めず、なぜかそれほど楽しんでいるわけでもないのに、新聞記事を読んでみたり、メールチェックしてみたりします。


私は最近、こうした時間は確かに「少なければ少ないほどよい」一方で、「ゼロというわけにはいかない」ものだと思うようになりました。この隙間に発生しがちなムダな時間帯は、時間割の中の「遊び」なのです。

「遊び」といえば、最近読んだ、野口悠紀雄さんの「「超」整理日誌」というエッセイに、こんな一節がありました。

「遊びが知性の尺度だ」というのは、「遊べる余裕を持っている人は、仕事を遂行する能力が高い」という意味ではない。また、「仕事ひと筋の人は人間味がなくておもしろみがない」という意味でもない。あるいは、「仕事ばかりしていると疲れるから、たまには気晴らしが必要」とか、「遊べば疲れが取れて仕事の能率が上がる」という意味でもない。そしてまた、「遊びで興味の範囲が広がれば、新しい発見をする可能性が広まる」と言っているのでもない。

ここで言う「遊び」とは、「生存のための合理的な目的に寄与することがないもの」である。それは、自己目的な行為であり、定義によってムダなものだ(なお、この定義によれば、日本のビジネスマンがやっているゴルフは、「遊び」ではなく仕事の一部である)。

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私たちは定義としてではなく直観的に、なぜか「遊ぶ生物」は知性を持つという判断に傾くようです。その意味で、あれほど高速に複雑な計算をこなせるコンピュータにすら、知性が備わっているようには感じません。

少なくとも今の段階のコンピュータは、仕事の真っ最中には「遊び」ません。「遊ぶように」プログラムすれば「遊んでいるらしく」振る舞うことはできるでしょうが。

私自身の経験では、どうしても仕事の進捗が鈍くなるのは、あまりにもスピーディに仕事をこなす必要に迫られた場合です。逆説的にも、時間が恐ろしく惜しくなって、「遊ぶ」余裕がまったくなくなってくると、少なくとも私は「ムリヤリ遊び始める」のです。

これが「脱線」なことは言うまでもありません。脱線をゼロにしようとすればするほど、脱線にのめり込みがちになるのです。

そういうわけで、今は忙しいからこそ、何とか「無駄な時間」をなるべくとりたいと考えている次第です。