よく考えてみると「たんなる当たり前の話」にすぎないのですが、思考のショートカットのせいか、ひんぱんに混同されてしまっています。
- 仕事を早く終える
- 仕事をラクに終える
- 幸せになる
この3つはぜんぶ、別々のことです。
タスクシュートはこの3つをきちんと分けるのにも有効に作用します。
まず、早くやればやるほどラクに終わるかといえば、そうではないはずです。
たとえば、13×29を猛烈な勢いで解いたからといって、その2倍の時間をかけてやるよりも「ラクだった」とは感じられないはずです。
これはつまらないくらいシンプルな話なのですが、両者が混同されるのは「自動化で一瞬に終わったときはラクだ」という感覚のせいなのです。
例えば100階まで必死に階段を駆け上るよりは、高速エレベーターで「一瞬で上った」方がラクです。しかしそれは「速いからラク」なのではなく、「自分で上ってないからラク」なのです。
よく考えればExcelの自動処理などにこの発想は活かされています。しかし「自分でやる」かぎりは、速いほどラクでは決してないはずです。
そして、速くて楽なほど「幸せ」というわけでもないのも、自明といえば自明です。もっともこれは価値観や感じ方もからんでくるので、「速くて自動処理されれば幸せ〜!!!」という人もあるでしょう。その点は否定できません。
「幸せ」になるには?
- 「時間をかけて苦しんだときにこそ幸せを感じろ!」
などといった話をする気はまったくありません。
ただ単に、
- 「いろいろと速くてラクにできているはずなのに、それでもなんだかくたびれていて、幸せでない気もする」
ということは、充分にありうると言いたいだけです。
仕事に限りません。例えば遊びなどはむしろそうです。
「遊びが自動処理」されても、少しも楽しくはないはずです。「苦労が必要」なのではなく、「自分がやらないほどいい!」という感覚には、「自分は元気がなく、弱まっている」という思い込みが前提になっていることが多いのです。
朝からヘトヘトで、ちょっとでもつらい仕事を割り当てられるとアタマと心と体が悲鳴を上げて泡をふく!
ということであればもちろん、エアコンが室温をつねに摂氏25度にしてくれて、湿度55%で、横たわることができ、ヒーリングミュージックが流れていて、流動食が静かに喉を潤してくれる間に仕事が終わっているにこしたことはないでしょう。
それは分かります。
しかし私はべつに身心がそこまで疲労困憊なわけではないので、そんな状態ではむしろ嫌気が差してしまいそうです。
なにも「身心にむち打つ」くらいでなければ幸せになれないわけではありません。それと同じく常識的に「何もかも自動でラク」でなければ幸せではないということでもないものです。
仕事を充分に時間をかけて、自分で終えれば、幸せになる
結論としては、
- 仕事を充分に時間をかけて終える
- 仕事を自分で終える
- 幸せになる
というあたりがリアルに目指せるところだと思うのです。そしてそれはタスクシュートで可能になります。
この結論はとうとつなようですが、
- 充分な時間とはどのくらいであるかがタスクシュートでほぼ明らかになる
- 自分で仕事を終えていることがタスクシュートで克明にわかる
という事実があるからなのです。
むろん、そうしたからといって「幸せになれる」ということが保証されるわけではありません。
幸せを感じるためには、「高速な自動処理」などよりもずっと、「自分は元気がなく、弱まっている」などと信じ込まないことが大切です。
もちろん本当にそうだというならともかくとして、疑える余地がある限り、私は疑っておきます。「自分は元気で強靱だ」と信じている方が、長期的にはベターだと思うのです。
元気で強靱な人なら、そんなに何もかも自動処理してもらいたいと、そこまで願わないでしょう。
現実になにを願うかは、自分をどうとらえるかに、深く関わってしまうものです。