「コペルニクス的転回」
という言葉はひどく多用されますが、どうしてこういうことが必要になるかというとたぶん、私たちのものの見方には何か固定的になりやすいところがあって、その視点にとらわれると、誰にも何の得にもならないのに、その見方を守らなければ気が済まなくなるということがあるからです。
この件について私の頭をよくよぎるのが、古典的な心理学者ウィリアム・ジェームズが「無神論者」について書いたエッセイです。そのエッセイの言わんとするところは、
無神論者は「神など存在しないことは常識だし、それを私は知っている」と思っているが、もし彼が死ぬ間際になって「実は神が存在した」ということになったら、大変なことになったと畏れざるを得ないだろう。
…といったところです。
ちょっと遠大な話をしてみたところで、いつもどおりいささか卑近なお話しに戻りましょう。
タスク管理についても卑近ではありますが、同じようなことが言えます。
絶対にやらずには済まされないタスクだけにする
ほとんどの人にとってタスクリストは、たとえ「今日やるタスク」であろうとも、「努力目標」に過ぎません。「そこにあるすべてのタスクをやる」わけではないものです。
しかし、ここで発想を逆転してみて、
- 書かれていることは、何があろうと絶対にやり通す必要がある
- そうでなければ死刑になる
ということになったら、非常におそろしいことにならざるを得ないと思うのです。
と言ってもこれだとあんまりなので、救済策を一つ出しますと
- ただし、朝のうちならやらないタスクをいくつ消してもいい
ことにします。
こういう条件でタスクリストを作ったなら、つまりタスクとは
- やる、やらない
の二択でしかあり得なくなります。
そして、タスクシュートでいうところのデイリーリストとは、「やるタスクだけで構成されている」ものなのです。これを真剣に考え抜かないと、意味がなくなります。
タスクリストどおりに動けるのは佐々木だけとか、アンドロイドだけとか、奴隷だけというのは、発想として逆です。
やらないかもしれないタスクをリストに載せているからそうした発想になるのであって、絶対にやらずには済まされないタスクだけにすれば、事態は必ず変わります。
絶対にその日のうちにやることだけのリストであれば、時間が足りないということも原理的にあり得なくなります。なぜなら、昨日であれ、一昨日であれ、一年前であれ、どんな日であろうとも、24時間の中で行われなかったタスクの存在は「絶対にやる」と矛盾するからです。
現実に行ったことのタスクにかかった時間の総和は、1日分であれば24時間ぴったりになっているはずです。
こういうふうにして、24時間ぴったりのタスクリストの、すべてのタスクに100%集中して実行すれば、仕事はいまとまったく違った様相を示します。
反対に、やるとはとても思われないタスクも載せたまま、どの仕事もなるはやで切り上げるということをするなら、同じことをやる価値が半減して感じられるでしょう。
仕事が楽しくないとは、その状態が半永久的に続くことです。