※当サイトはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています。

記憶頼みでは頼りない、しかも、いずれ頼れなくなる



大橋悦夫『認知症になった私が伝えたいこと』という本がぐいぐい来る。当たり前だと思っていたことが覆される意外性、そして他人事ではない恐ろしさ。

著者の佐藤雅彦さんの毎日はまさに記憶との闘いであり、人間の記憶がいかにあやういものであるか、もっと言えば人間の生というものがいかにもろいかを思い知らされる。

不意にネットがつながらなくなり、一時的なものだと思って気にも留めずに復旧を待っていたら、無期限に不通状態が続くことを宣告されるようなもの。「もう二度とつながらないのか…」と絶望する。想像すらしたくないことが現実になる。

» 認知症になった私が伝えたいこと[Kindle版]


あるのが当たり前、なくなるまで気づかない

水や空気のように、人間にとっての記憶とは無色透明で、それがあるのが当たり前であり、当たり前すぎてそれについて意識することすらない。

意識していないのに必要なときには必要なだけ「消費」している。

新しいコトを覚え込む、覚え込んだコトを必要に応じて即座に呼び出す。

銀行では、「預け入れ」はだいたい無料だが、「引き出し」には手数料がかかることが多い。

記憶も同様で、「覚える」ときより「思い出す」ほうが手間がかかる。思い出せないということは要するに「覚えたつもりになっていたことに気づく」ということであり、「100万円を預け入れたつもりでいたが、それは夢だった」というようなもの。

あるいは「預け入れてからしばらくは自由に引き出せたのに、いつの間にか引き出せなくなる」という“取り付け”も普通に起こる。

記憶頼みの生き方は極めて頼りない。

佐藤雅彦さんの日常

もはや記憶に頼れなくなった佐藤雅彦さんが日々直面していること。

  • 昨日の出来事が思い出せない
  • 今日、何をしていいかわからない
  • 今日の日付や曜日がわからない
  • 朝起きた時間がわからない(思い出せない)
  • 予定の時間が飛んでしまう(予定の時間を意識できない)

予定が飛ぶ

最後の「予定の時間が飛んでしまう」とは…。

たとえば、11時に病院に行く予定があるのに、出かける前に本を読んでいたり、なにかおもしろいテレビをやっていたり、電話がかかってきたりすると、病院に行くことを忘れてしまうことがあります。

iPhoneとApple Watch(GPSモデル)の関係に似ている。iPhoneが記録であり、Apple Watchは記憶。iPhoneと一緒にいる間(通信が維持されている間)は問題ないが、ひとたびiPhoneから離れると途端にできることが著しく制限されてしまう。

iPhone(記録)に予定が登録されていても、その通知がApple Watch(記憶)に届かないのである。



「メメント」という映画では、前方向健忘症(事故などのきっかけを起点にして、それ以降の記憶が行えなくなる症状)の主人公が登場する。

次々と新しい人と出会うのだが、相手のことを覚えられないので、その場でポラロイドカメラで撮影し、プリントした写真に名前と特徴などを書き込む。

また、メモをしてもメモをした事実はもちろん、どこにメモをしたのかも忘れるので、自分の身体に入れ墨を入れる。メモしたいことを文字通り身体に刷り込む(彫り込む)のである。こうすることで、「オレは何をしていたんだっけ?」と疑問に感じても、自分の身体を見れば思い出せる。

この映画を初めて観たとき、「新しいことを覚えられない」というコンセプトに感銘を受けたのだが、あくまでも「映画の世界」という位置づけだった。

それが今回、佐藤さんの体験を読み、以下の事例を目にしたことで「現実の世界」に変わった。

会った人の顔や名前を忘れないように、iPadや携帯電話で写真を撮らせてもらって、その人の名前を入れて保存しています。電話が鳴ったときも、その人の写真が出るようにしています。


「買い物リスト」+「買ってはいけない物リスト」

佐藤さんは買い物に行く際に、「買い物リスト」に加えて「買ってはいけない物リスト」を持参するという。

「買ってはいけない物リスト」には何を書くのか?

冷蔵庫にまだある牛乳とか、卵とか、買い置きしてあるカミソリなんかを書いておくわけです。そうしないと、お店でついつい同じものを買ってしまうことになります。

確かに、買い物に行ったときも無意識のうちに安易に「記憶」という魔法を使ってしまっている。「確か、牛乳はまだあったよな…」と。

※佐藤さんはApple Watchを使うといいかもしれない。

▼いつの間にか脱線していても通知で教えてもらえたり(たすくま)、


▼昨日までの記録をもとに今日をガイドしてくれたり(アクティビティ)。




記憶に頼りすぎていないか?

通常であれば記憶や注意の力が自然と発揮されることによって造作なくできることも、外部ツールに頼らなければできなくなっている状態。

記憶や注意の力は、言ってみればバックグラウンドで動いているので、知らず知らずのうちにリソースを消費している。

「神経衰弱」という、その名の通り極めて疲れるトランプゲームがある。もし、表に向けたカードの絵柄をメモに残せるなら、あるいはパシャッと撮影できるなら、実に楽勝なゲームに変わる(ゲームとしては成立しなくなるが)。

日々の仕事や生活は「神経衰弱」ではないのだから、無理に記憶に頼る必要はないはずだ。むしろ積極的に外部ツールに頼ることで、記憶や注意のリソースをより重要なことに振り向けることができる。

いちいち外部ツールに頼る必要はほどではない行為こそ外部ツールに頼った方が、結局今より多くのことをより効果的にこなすことができるようになる。

いずれ記憶には頼れなくなるのだから。

» メメント (字幕版)


» 認知症になった私が伝えたいこと[Kindle版]