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「何か秘策でもあるのか?」の問いにハッとさせられた日



大橋悦夫ふと思い出したシリーズ。

会社員時代、とある大きな仕事を任されていたことがありました。

20名ほどのプロジェクトチームで、ある企業のシステム開発案件を請けていたのですが、その中で僕は旧システムから新システムへデータを移行する役割を担っていたのです。

ある日を境に、旧システムから新システムに切り替えるわけですが、昨日まで入力したり更新したりしたデータが、翌日には新システム上で、あたかも昨日もその新システムを使っていたかのように、そこに正しく入力されている状態を実現する、これが僕の仕事でした。

これを実現するには、

  • 旧システムが扱っているデータの種類と分量を把握したうえで、
  • それらのデータ間でどのような関連があるのかを理解し、
  • 最終的に集計表や伝票など人が目にすることになるアウトプットにどのように現れるのかを知悉する

必要があります。

さらに、新システムから新たに扱い始める、旧システムには存在しないデータもありますので、それらは別途その企業の担当者の方にご用意いただいたうえで、新システムに組み込む作業もあります。

ほかのメンバーたちが開発を進めている新システムのデータ構造を確認しながら、旧システムのデータをどのように加工すればいいか、いつまでにどのデータをどれくらい用意すればいいか、そのために誰に何をどのように依頼をすればいいか、など実に多岐にわたる複雑な仕事でした。

「何か秘策でもあるのか?」

この仕事に取りかかった当初、いったいどこからどのように進めればいいのか途方に暮れていました。

さまざまなケースを想定しながら、「データ移行計画書」なるドキュメントを作るべく日々朝から晩まで仕事に明け暮れていたのですが、いっこうに見通しというものがつきません。

「データ移行計画書」ができても、それは映画でいえば脚本ができあがるだけで、それをもとに撮影をする必要があります。始めるための準備ができるだけで、仕事が完結するのはさらにずっと先なのです。

にもかかわらず、その脚本が書き上がらないどころか、脚本を書くための資料集めも終わっていない感じです。

一方、新システムが稼動を始める日はすでに決まっていて動かせない状況です。

  • 期限までにきちんとデータ移行は完了するのだろうか?
  • 本当に「あたかも昨日もその新システムを使っていたかのように、そこに正しく入力されている状態」は実現するのだろうか?

といった不安に押しつぶされそうになりながらも毎日とにかく手を動かしていました。

そんな折、プロジェクトの責任者である上司が作業中の僕の傍らにやってきて言います。

本当に期日までにデータ移行はできるのか?
何か秘策でもあるのか?

このひと言を聞いたとき、「ハッ」としました。

特に「秘策」という言葉は20年近くたった今でもハッキリと耳に残っています。

もちろん、上司の意図は「秘策があるんだったらいいんだけどさ~♪」ではなく、「明確にスケジュールを示した上で進捗を報告せーよ」という指示です。

当の本人さえも認識できていなかった「秘策」

正直なところ、毎日朝一番から深夜まで仕事に取り組んでいるにもかかわらず、その僕自身にも間に合うのか分からず、何か良い方法はないかなと考えていたので、「秘策」という言葉が実に魅力的に聞こえたのです。

「そんな秘策とやらがあるなら今すぐ教えて欲しい」と。

でも、その直後です。

「あ、もしかして自分はまさにその秘策を毎日コツコツ作ってきたのではないか?」

と思い至ったのは。

結論から言うと、「秘策」はありました。

イメージで描くと以下のような感じで、期限ギリギリになるまで、作っている自分でも見通しがつかず、でも、あるとき不意に、まるでパズルが解けたときのように全体像がパッと姿を現すのです。

そこに至るまでは、出口の見えないトンネルを粛々と進むしかない。



思い出したフレーズ

今回の記事を書くために、当時の日記を読み返していたら、村上和雄さんの『アホは神の望み』という本の以下のくだりを思い出しました。

一年たっても、二年たっても、結果が出ない研究プロジェクトがあった。失敗ばかりが続いて、それ以上、何をしたらいいのかわからなくなり、まったく行き詰まってしまったとき、一人のメンバーが突然、便所掃除を始めた。まじめでひたむきな人間らしく、毎朝夕欠かさず、モップとタワシで便器をきれいにしている。

経営者が理由をたずねると、「これを続けていれば、必ず成功すると自分にいい聞かせているんです」。こういう行為を根拠がない、アホらしいと笑うのは利口な人のやることだと思います。少なくとも私には笑えません。それどころか圧倒もされるし敬服もします。

なぜなら、それほどの熱意、理性を超えたすごみさえ感じられる愚直な情熱には、神もたまらずセレンディピティを与えるはずだからです。

さすがに便所掃除はしませんでしたし、僕が抱えていた課題はここに書かれているほど立派なものではありませんでしたが、当時の自分は自分なりに「これを繰り返していけば到達できるはず」という根拠のない確信のようなものがあったのだと思います。

感謝すべきは「秘策」というキーワードを口にしてくれた当時の上司です。

この言葉を聞くまで、僕は自分では仕事をしているつもりではありましたが、空回りしているような空しさがありました。

それが「秘策」というキーワードを耳にしたとき、まさに「カギ」となって、それまで作り上げてきた膨大なドキュメントやワークシートやテストデータが一定のルールに則って整然と配列されていくイメージが浮かびました。

そうか、自分がやっていたのは「秘策」作りだったのか、と腑に落ちて、それまでモヤモヤが一気に解消し、そこからは何をどのように進めていけばいいのかの手順がクリアーになり、当然上司やチームメンバーにも進捗見通しを明瞭に伝えられるようになりました。

むろん、上司としてはこのような“転換”を引き起こそうというつもりはなかったかもしれません。

それでも、結果として僕はトンネルを抜け出すことができました。

同時に、仕事には「トンネルに覆われて見えなくなる区間」というものがありうるのだな、ということを知りました。

その上司は、この「秘策」発言以外は特に口を挟まずにいてくれたので、僕はマイペースでトンネルを突き進むことができました。

もし僕がこの上司の立場だったら、これほど放置できたかはわかりません。きっと、「ちゃんと報告して」と口を出していたでしょう。

単純に、上司が忙しさのあまり僕のことを気にかける余裕がなかっただけかもしれませんが、何であれ、このトンネル体験は僕にとっては意義深いものになりました。

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