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「全員から好かれるのは不可能」だけど「全員から嫌われることもまた不可能」



大橋悦夫僕の会社員人生は、大学卒業後に入社した独立系のソフトハウスでの4年間だったのですが、今から思うとこのたったの4年間というわずかな期間に実に多くのことを学ばせていただきました。単純に労働時間が長かったせいで睡眠時間が短くなり、必然的に活動時間を最大化できた(せざるを得なかった)ということも大きいですが…。

学んだことの多くは、“卒業後”の実戦で役に立つものばかり。計画の立て方、仕事の進め方、作業を可能な限り自動化する習慣、といった実務的なスキルはもちろん、チームで仕事をするとなると必ず生じる、人間関係にまつわる諸問題についても、身をもって体験できたことでまさにその後の心の糧になりました。

「人間関係にまつわる諸問題」などとざっくりと書きましたが、僕自身はこの分野のエキスパートというわけではないので、人に教えられるものではありません。

ただ、「人間関係において普遍的に言えること」については、痛い目に遭いながらも、理解を深めることができました。

その1つが、これは何かの慰めのような物言いとしてよく耳にする「全員から好かれるのは不可能」というものです。

一部の人には嫌われることになるが、これと引き替えに、別の一部の人からは熱狂的に支持されることになる、という「よくある話」に展開します。

一部の人から嫌われることを怖れて自分を出さずにひっそりと生きていくことは、熱狂的な支持者(になるであろう人たち)と出会うことなく死んでいくことを受け入れることになる、といった軽いプレッシャーを感じさせる言い方もあるかもしれません。

この言葉に奮い立つ人もいるかもしれませんが、一方で慎重な人の中にはこう考える人もいるでしょう。

「『全員から好かれるのは不可能』という普遍的な真理は確かに同意するけど、それは言い換えれば、一部の人からは確実に嫌われるということですよね?」というネガティブな側面を目ざとく見つけて、その場に立ち尽くしてしまうような。

「全員から好かれるのは不可能」だが「全員から嫌われることもまた不可能」

これに対するさらなる反論としては、「確かに一部の人には確実に嫌われるけど、全員から嫌われるということはない」が考えられます。

何か新しいことをすれば、一部の人には確実に嫌われるものの、開き直って「これなら全員に嫌われるに違いない」という極端に走ったとしても、誰かの心の琴線に触れてしまい、「全員に嫌われる」の成立はなかなか実現しない。

何か新しいことをすれば、どこかの誰かに何らかの影響を与えずにはおかない、ということです。

「やってみたけど、何も起こらなかった」という結果に終わったとしても、それは「やってみた」人の観測できる範囲内に限った話でしかないわけです。

「あるがまま」戦略

かなり昔に読んだ本ですが、『必ず最善の答えが見つかる クリエイティブ・チョイス』という本に載っていたエピソードが印象的で、折に触れて思い出します。

いまこの記事を書きながらまた思い出したので、引用します。

次に引用するのは、俳優で名文家でもあった伊丹十三の「近代五種」というエッセイの一節です。

ある友人がわたしにいった。

「きみとぼくとは実に妙な共通点があるな。つまり、われわれ二人とも、ヴァイオリンを弾くでしょう」
「うん」
「しかも競馬狂だ」
「そんなの、ちっとも珍しくない。オーケストラの中にいくらでもいるよ、競馬狂のヴァイオリニスト」
「いやいや、まだ先があるんですよ。しかもわれわれは二人とも玉を突く。そうして花札をやる。それもハチハチしかやらない」
「なるほど、そういえばそうだ」
「そこまではまだいいんですよ。決定的なのは、その上にですね、われわれ二人とも剣玉の名手でしょう。こういう組合せの二人が日本で他にいるもんですかね?」
「・・・・・・・・・」
「だからね、もしかしてね、突然社会が変ってですね、ヴァイオリンが弾けて、競馬が好きで、ハチハチが強くて、玉突きと剣玉のうまい人が一番偉い、っていうようなことになったら、われわれ日本でも一番偉いほうになるんじゃないかしら?」

この「ある友人」の発想は「わがまま」です。ただ、「わがまま」ではどうしても第1章を中心にお話しした「ワガママ」の意味合いが抜けないので、ここでは「あるがまま」と呼びましょう。

われわれの発想は、今いる環境や慣習の枠内にとどまりがちです。「環境のほうに変わってもらおう」と思うのは、不合理どころか不遜に感じられてしまいます。

たとえば仕事を確保するうえでは、修士号や資格をとることが合理的な選択に思えます。それらは、ある労働市場に入るための入場券のようなもので、難しい資格を持っていればよりプレミアな市場に入れます。雇用されやすくなります。これは合理的で有効な戦略です……労働市場が変わらない限り。

まぁ、上記のような特異な条件(ヴァイオリン、競馬、ハチハチ、…)を揃えている人に「出番」が回ってくる可能性はゼロではないにせよ、あまり高くはないだろうなとは思います。

でも、重要なことはその後に書かれている「あるがまま」というあり方です。

今の自分の「あるがまま」を出してみたときに、全員に嫌われる…まで行かずとも、誰一人として興味を示してもらえないことはないと思うのです。

「あぁ、やっぱり同じことを考えている人がほかにもいたんだ!」とか「まさに、あなたのような人を探していたのです」という出会いがあるかもしれません。

そんな出会いに恵まれる確率は極めて低いかもしれません。でも、「難しい資格」を巡って競争率の激しい中で勝ち抜く確率と、さほど変わらないのではないか、と思うのです。

少なくとも、「あるがまま」でいられるぶんだけ分があります。

最近読んだ『そろそろ会社辞めようかなと思っている人に、一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか 最新改訂版』にあった以下の考え方も、ぴったりこれに通じます。

話が少し逸れますが僕は最近、「ネットを使って出会えない人はいない」と考えるようになりました。自分が会いたい人は、世界のどこかに必ずいるのです。

自分が欲しいと思っているサービスや物も必ず存在する。そういう信念を持って探してみてください。あなたが弟子入りすべき人、いわゆるマスターはきっと見つかるでしょう。

見つけたら直接連絡するのです。手書きの履歴書やエントリーシートを競争率の高い企業に何百枚も送るよりも、ずっと効率的に職業訓練の機会を得ることができます。

自分のロールモデルとなるであろう人物にメールを1通送り、とにかく会いに行って、そこでなんとか丁稚奉公させてください、というのが正しい就職の仕方だと僕は思いますし、それが世界ではスタンダードなのです。日本のように、誰もがリクナビのベルトコンベアーに乗ってエントリーシートを送りまくるといった就職の仕方は、実は世界では稀なパターンです。

無数の企業よりたった1人のマスターです。

参考文献