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「好きなことだけして食っていく」ことはできない

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『サラリーマンだけが知らない好きなことだけして食っていくための29の方法』を読みました。

印象に残ったのは以下の一文。

あれもこれも求める人は結局、何者にもなれない。


大橋悦夫2000年3月31日に4年間のサラリーマン生活をやめて、その後の14年間をそれなりに「自由に」生きてきていますが、曲がりなりにも何とか食べてこられたのは、「好きなこと」を仕事にしていないからだと、振り返ってみて実感しています。

「好きを仕事に」という考え方には次の2つの危うさがあります。

  • 1.好きなことを仕事にすると嫌いになってしまうのではないか?
  • 2.好きなことを仕事にするのは自己満足に過ぎないのではないか?

どこまで行っても、仕事は自分のためにするものではなく、それを通して何らかの充足感を受け取るであろう相手のためにするもの、すなわち献身的な行為だと思うのです。

何をもって献身、すなわち身を捧げて尽くすのか。

もし仮に「好きなこと」だとしたら、それはもはや仕事とは呼べないのではないかと感じます。

なぜなら、僕は仕事とは別にある「好きなこと」をするために仕事をしているからです。

では何を尽くせばいいのか

それは「得意なこと」。

「得意なこと」が「好きなこと」とたまたま重なることもあるでしょう。

でも、「単に好きなだけのこと」では、最初は良くても、長くは続けられないのではないでしょうか。

とはいえ、自分の中にある「好き」と「得意」を区別するのは難しいかもしれません。

「自分は英語が得意だ」と思い込んでいたが、それは単に「好き」であるだけという可能性もあります。英語の場合は、自分の言いたいことが相手に伝わるか、会話が成り立つか、あるいはTOEICのスコアが何点か、といった客観的な目安や指標によって「単に好きなだけ(結果はぜんぜんダメ)」なのか「間違いなく得意」なのかをはかることができますが、そういった目安や指標のないことについては常に「思い込み」から抜け出せないのです。

「得意」だけでなく「好き」についても、自分一人で完全に把握するのは困難です。

たとえば、「これは好きだからやっていることだ」と明確に意識して取り組んでいることは数ある「好き」のほんの一部でしかありません。

  • 気づいたらそのことばかり考えている
  • 撮った写真を眺めていたら、同じような構図ばかりだ
  • 気分で選んでいるつもりが、いつも似たような色ばかり着ている

などなど、振り返ってみたり、あるいは人から指摘されて初めて「あ、好きなんだ」と気づくこともあるからです。

そして、「好き」は途中で「好きではない」に変化する危うさをはらんでいます。
感情のうねりから切り離せないからです。

得意なこと=結果を出せること

一方、「得意なこと」は、たとえそこに「好き」という感情が織り込まれていたとしても、結果を出せるか出せないか、という一点によって、白か黒かの判定を下すことができます。

「得意なこと」は言い換えれば「できること」です。たとえば、「自分にできることだけど、仕事にはしたくない」という冷静な判断を下すこともあるでしょう。

ここで、「自分にできることだし、仕事にしたい」と思えることを見つけられれば、きっとそれは望ましい働き方になる可能性が高いです。

この時の「仕事にしたい」という気持ちは先ほどの「好き」とは異なる感情ではないかと僕は考えています。

「仕事にしたい」という時の気持ちに「好き」が伴うこともありますが、「好き」ではないことに対して「仕事にしたい」という意志が揺らがないこともあるからです。

この気持ちを支えるものはいったい何か?

それは使命感だと思います。

「これは自分がやるべきことである」と強く信じることができる状態。

「なぜなら、自分にはそれができるから、結果が出せるから」という揺るぎない自信が心の奥底からふつふつとわいてくる状態です。

最初は「好き」から入る

とはいえ、いきなり結果を出すのは不可能。
最初はどうしても「好き」から入るしかありません。

「(今は)できないけど、とにかく仕事にしたい!」という“情熱”によって、いつしか「得意」に変化することもあるでしょう。

そういう意味では「好き」はフェロモンのようなものかもしれません。最初は色も形もない「使命感」に自分を引き寄せる役割を果たすからです。何のきっかけもなく不意に使命感に目覚めることはないでしょう。

「好き」から入って、付き合っているうちに「使命感」に触れ、そこから先に進みたいと思えれば、ギアを「得意」に切り替えますし、「好きのままにしておきたい」のなら、その場にとどまります。

たとえば、英語が得意だという人は、物心ついた時に英語に触れる機会があり、たまたま音の響きが心地よく感じられたために興味を持ち、接する時間が増え、いつしか「得意」に変化したのかもしれません。一方、「英語は好きだけど、しゃべれません(笑)」みたいな人ももちろんいるでしょう。

あるいは、僕は映画を観るのが大好きですが、これを仕事にしたいとは思いません。純粋に趣味として楽しみ続けたいからです。ドラマに使命感を持ち込みたくないのです。

次に「得意」に引き上げる

これまで人から尋ねられた時に「僕は文章を書くのが好きなので…」と答えたことが幾度もありました。でも、告白すると、文章を書くのは好きではありません。最初は好きだったのかもしれませんが、今は正直なところ「好き」とは言えないのです。

では今は何が「好き」かといえば、人の物語に触れること、です。映画を観ることにも通じるのですが、人の物語を通してそこに自分を観ているのでしょう。「自分だったらこうするのに」あるいは「自分に同じことができるだろうか?」といった疑似体験や「これはまったく自分のことじゃないか!」という発見が人生を豊かにしてくれます。

この「人の物語に触れること」という「好き」は、しかし、文章を書くことを通して出会ったことです。文章を書くのが好きになると、当然、人の書く文章にも関心が向くようになります。「自分が熱心に取り組んでいることを、ほかの人はどのようにやっているのだろうか?」という目で見るようになるので、より突っ込んで見るようになります。

この過程でいつしか「好き」は「得意」に変化していきます。

かくして、文章の“編み目”を通り抜けて、その奥にある書き手の物語に突き当たるようになります。なぜこの人はこのような文章を書くのだろうか、という“物語のはじまり”に興味が芽生えたのです。

このように、「好き」から入って「得意」に踏み固め、それを足掛かりにして次の「好き」に乗り移っていく、というプロセスがあるわけです。

最後に乗り越えるべき壁

自分の中にある「得意」なことが見つかっても、それを仕事にするためには、最後に乗り越えるべき壁があります。

ここで言う壁は、以下のように天から地上に向かって逆方向にそびえており、先端は水に浸かっています。乗り越えるというより、水の中に飛び込み、この壁をくぐって向こう岸に渡る必要があります。

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これは横から見た断面図なので、水深は浅いですし、壁も水底まで届いていないので、「あちら側」に行けるのは明らかです。

でも、左側にいる人の目線では、目の前には行く手を阻む壁しか見えないのです。潜ってみれば壁が水底まで達していないことがわかるので、その先に進むことができますが、そもそも水の中に飛び込むというリスクを冒したくありません。

さらに、この壁は透明のガラス製なので、「あちら側」が見えています。すでに「あちら側」に到達した人の姿もガラス越しに見えています。

何も知らない人は、そのまま進むでしょう。泳いで渡れると直感するからです。でも、水面付近は壁があるため、そこで行く手を阻まれます。

ここで、水中に潜るか、引き返して岸辺で様子見を決め込むか。

一度は「沈む」勇気を持てるかが問われるのです。

勇気の源泉は使命感

誰しも損をしたくないので、たとえ一時的なものだと言われても、リスクはとりたくないものです。

そうしたリスクをものともせずに「沈む」ことを受け入れるためには「自分にはもうこれしかないのだ」という諦めにも近い使命感が欠かせません。

「好き」なだけではそこまでできないのです。

ある意味、この水は「禊ぎ(みそぎ)」といえるかもしれません。

冒頭に引いた以下の一文。

あれもこれも求める人は結局、何者にもなれない。

この一文における「あれもこれも求める」とは、岸辺で様子見を決め込む態度を指しているといえるでしょう。自らの使命感をもって自分を信じて前に進むしかないわけです。

そんなことをして本当に大丈夫なのか?

すでに「あちら側」に到達した著者が「保証はできないが、少なくともこういう断面図になっていることがわかった」と教えているのが、本書です。

そういう意味ではタイトルに偽りがあるかもしれません。

著者は「好きなことだけ」では食っていないからです。

» 『サラリーマンだけが知らない好きなことだけして食っていくための29の方法』


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