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「シン・ゴジラ」を観てきた



2016年7月29日公開の「シン・ゴジラ」を観てきた。

何が良かったかってカメラワーク。これに尽きる。

随所に印象的なトランジションが駆使されていて、常に「物語をリードしているのは他でもない、我々カメラなのだ」という控えめながらも力強い主張が通底していたように感じられる。

では主役は誰かといえば、そのカメラを通してこちら側にいる観客。全328名の出演者たちはひとり残らずその主役を引き立てる“脇役”に過ぎない。

エンドロールでは最初に準主役の3名(長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ)が出た後は、残る大多数(324名)の出演者が五十音順で、しかも3段(×108行)で実にあっけなく流れ去っていった。最後に1名だけ、本作において欠かすことのできない役を演じた俳優が単独で流れたけど、彼もまた“脇役”の1人に過ぎない。

ワンシーンでひと言しかセリフがない人もいたりして、いやセリフがあるだけましで、うっかりカメラに姿が映ったかどで「出演」とみなされてしまったのではないかとさえ思える人もけっこう多い印象。

ほかのドラマや映画でおなじみの俳優が多数登場し、一人ひとりを目にするたびに「あぁ、久々にあのドラマ(映画)が観たいなー」という欲求の瞬間的なほとばしりが、上映中ずっと続くので、記憶領域への小刻みなアクセスが極めて高頻度で発生し、そういう意味においてはやや脳が疲れる作品。まぁ、心地よい疲労感。

個人的には、「金融腐食列島」(1999)で役所広司とともに「若手」を張っていた矢島健一と中村育二が二人並んで登場していたシーンとか、本作に限らずどの作品においても常に異様な存在感を示す津田寬治とか、「スワロウテイル」(1996)や「冷たい熱帯魚」(2010)などでダークな役を演じる渡辺哲とか、出演している作品の多さに比して印象が薄いものの個人的に「あ、また出てる!」感の強い黒田大輔とか(すべて敬称略)。

そんな、たくさんの役者を一度に少しずつ楽しめるという意味では自分にとっては貴重な作品。

あと、エンドロールの後半に列挙される協力団体のおびただしい数に圧倒された。これだけの団体・人物の理解を求め、誤解を防ぎ、同意を取り付けたうえで必要十分な協力を引き出す、その仕事の困難さと途方のなさを想像するだに恐ろしい。

映画制作現場のプロジェクト管理とタスク管理がどのように行われているのか、非常に気になるところ。

» ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ