※当サイトはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています。

続・適正な仕事量を考える

前回の続き。

攻められてから追放するという事後(リアクティブ)ではなく、事前(プロアクティブ)にしかるべき準備をして、迎え撃つくらいの体制を築きたいものです。

プロアクティブはリアクティブの残像です。

自分がこうなるだろうと思ってやったことは、「こうなるだろう」と思っているがゆえに何らかの結果を生み出すのですが、その結果に客観性を割り当てることはほとんど不可能です。なぜなら、視界から残像というバイアスを取り去ることができないからです。

「こうなるだろう」というある種の期待が伴わなければ身体は動かず、しかし、そう思うからこそ得られる結果は少なからず「こうなるだろう」の影響を免れることはできません。実際の結果が「こうなるだろう」からかけ離れたものになったとしても、そこから法則性を導きだそうとしたときに、基盤となるものが形式知化できない“残像”でしかないことに気づいてがく然とすることになります。

例えば、ものの本によると「すべての動物は死ぬ」、「人間は生物である」、「従って人間は死ぬ」という三段論法を考えるとき、無意識のうちに人間を動物の中に含めているために、結論である「人間は死ぬ」という解釈は客観的には証明できない、とされています。

言い換えれば、人間は動物であるという解釈は、経験や観察を通じて得られたものであり、反証されない限りにおいてのみ真なので、結局のところ「人間は死ぬ」という命題の拠り所は人の直感でしかない、と。

現実認識は人の数だけ存在し、従って人の数だけバイアスが生まれます。ある人が経験したことは、その人が事前に持っていた経験や期待によって生まれるバイアスによって歪められ、言語表現においてもさらに変調がかかります。自分の行動によって生じた“残像”によって、行動の結果に対する自己評価が影響を受け、これに続く次の行動指針にもその影を色濃く落とすことになります。

たとえ誤解であったとしても、毎回同じ方法でたまたまうまく行ってしまえば、その方法はますます強化されるわけです。

そう考えると世の中にあふれる「こうすれば仕事はうまくいく」の類のほとんどには疑問符がつけられる可能性があります。いずれも「こうすれば」の拠り所は直感でしかないからです。つまり、客観データで注意深く構築された自然科学の数式では仕事術を割り切ることができないのです。

以上を踏まえて、適正な仕事量というものを考えるとき、それは常に変動するものであり「適正」という言葉が指し示すような現実はいつまでたっても認識することはできないという結論にたどり着きます。つまり適正な仕事量など存在せず、それは人々の心の中に描かれるイメージに過ぎません。

なんだか閉塞感でいっぱいの暗い話になってしまったようですが、でも問題はありません。閉塞感を感じるのは、自分が何らかの法則に依っている何よりもの証拠であり、無意識のうちにその頸城(くびき)に囚われているからであって、そもそも法則化できないはずのものを法則に当てはめようとしてうまくいかずに悶々としているだけだからです。

考えるよりもまずやってみる、という姿勢は、このような閉塞感の罠を避ける唯一の方法です。およそ他の人がやりそうもないやり方で、一般に常識として了解されているところをあえて覆し、タブーに取り組んでみるのです。

やってみて、うまくいかなければ、また別の方法を試す、というシリーズを愚直に繰り返していけば、1つや2つくらいはうまくいくものが出てきます。なぜうまくいくかを論理的に説明できなくても、うまくいく限りはその方法を使い続ければよいのです。

いま、仕事量の多さを何とか解消しようとしているなら、理論ではなく経験に照らして、法則に従おうとするのではなく現実から何かを読み取ることによって、その方法を見いだす方が自分でも納得のいく結果に近づけるのではないでしょうか。

それでも「こうすれば仕事はうまくいく」というキャッチにはついつい心を動かされてしまうわけですけれども。。