どんなにカレーが好きだからと言っても、毎日三食カレーばかりを食べ続けていればやがて飽きがきて、別の食べ物を欲するようになる。牛丼でも焼肉でもベーグルでも何でもそうで、同じものばかりを食べ続けていると体は特定の刺激にさらされ続けることになり、偏った状態に陥る。
「飽きる」という感覚は、そういった偏在性を回避するための人間の体にあらかじめ組み込まれたプログラムである、というような話を聞いたことがある。個人間の差こそあれ、人は新しいものには注意を引かれる。
既存のものと新しいものとを比較し、新しいものの中に既存のものにはない何かを見いだせれば、それを欲する。
人が「飽きる」ことを忘れたら、その時点で発展は止まる。
人は「飽きる」ことで自分の中の新しい局面を見いだし、「飽きられる」ことによって自分の中にある旧い局面を認識する。
ところで、カレーを食べることに「飽きる」ことはあっても、「忘れる」ことはあまりない。似ているが違う。「飽きる」は記憶に深く濃く刻みつけられ「まくって」いる状態であるという意味で、浅く薄くなって磨耗している状態を指す「忘れる」とは正反対の概念である。
久しぶりにカレーを食べてみると、「忘れていた」おいしさがよみがえり、「飽きた」はずの味が豊かに感じられる。
飽きられても忘れられなければ客は戻ってきてくれる。
もちろん、飽きられる以前に忘れられることもある。
そう考えると、よく言われるような「客に飽きられないように工夫をする」という前にやるべきことがある。飽きるほど反復したくなるような「忘れられない」魅力や価値をまず用意すること。
客は商品やサービスに魅力や価値が「ある」から来てくださるのではなく、商品やサービスが魅力や価値を「うったえる」から来てくださる。客は目的語であって、動詞ではない。客が自ら商品やサービスに向かうのではなく、商品やサービスの方が客を動かす必要がある。
ほうっておくと商品やサービスは「状態」(常態)化してしまう。