私たちは、目標達成のためのタイムスケジュールとか、カリキュラムというものに、何か間違ったイメージを抱いているような気がします。
典型的なのが、「三ヶ月もアメリカで暮らせば、英語が話せるようになる」というようなものです。誰かが統計をとったり、これといった根拠も示されないまま、「期間」が区切られています。
こうした例は実にたくさんあって、三週間続ければ習慣に変わるとか、免許は一ヶ月もあれば取れるとか、その期間内でできなかった人たちの心に、不要な影を落としています。
実際には、運転技術の習得や、スキーが滑れるようになるのに、必要な日数など誰にも言い切れるものではないはずです。また、他人がカリキュラムの日程を立てたからといって、その日数をこなせば目的が達成できるという保証も根拠もないはずです。
とりあえず、始めない
調査によると、典型的な新年の誓いは一〇年繰り返され、そのうちの四分の一は年明けから一五週間のうちに挫折して翌年また引っ張り出されるという。
私たちが期間を区切りたがり、「三ヶ月で」とか「三週間で」とか、もっと言えば「三日で」という言葉に弱いのは、目標が達成された自分は好きだが、達成できていない自分は好きになれないからなのです。
英語ペラペラの自分はカッコイイし好きでも、英語マゴマゴの自分は嫌い。そうであれば当然、英語マゴマゴの「期間」は短ければ短いほどよく、その「期間後」の英語ペラペラに速く移行したいものです。
だから「マゴマゴ」の時代は長くても一年、できれば三ヶ月、可能なら三週間で、一気に「通過」したい。「マゴマゴ」の自分とはあまり長く向き合いたくはないのですが、初日、二日目辺りは、イメージとはなんの関係もなく、現実の自分の姿が目に入ったり、耳に聞こえてきたりします。
この「マゴマゴ」への嫌悪感が強ければ強いほど、「短期集中講座」で切り抜けたくなるわけで、しかしどれほど「短期集中」するとしても、「勉強中」は「好きになれない自分の姿」に直面します。その姿を見たくなければ、「練習も勉強もしない」という方法しかありません。すなわち投げ出すことになるでしょう。
ですから、何度も挫折中の「恒例の失敗パターン」にはまり込まないためにも、「とりあえず始めてみる」のはあまりいい方法だとは思えません。「とりあえず始めてみる」のは、「思ったよりもうまくいくのではないか」とか「思ったよりも速く済むのではないか」という期待感に後押しされてのことだと思うのですが、そういけばよいものの、そうでないと挫折体験を増やすことになるからです。
あらゆる猜疑心に耐えられるやり方とは?
『脳が教える!1つの習慣』は、こうした「挫折」を避け、「継続」を自分のものとするための、類書も多い本ですが、基本理念はたった1つ、「とにかく小さく舵を切る」ということに尽きます。
これは、それほど目新しい考えには思えず、要するに「どんなに小さな一歩でも、ゼロよりはまし」という程度のものに見えますが、この本の著者が言いたいのは、それよりも「小さな一歩から始めていては、目標が達成できないというのはウソ」だという点です。
「小さな一歩」や「目に見えないような変化」がダメだということになると、「それなりの一歩」や「劇的な変化」が必要だということになりますが、何度もそうやって挫折を繰り返している人は、世界中にいるわけです。それでも、「それなりの一歩」、「一定量を毎日こなす」というやり方に固執するのは、決して合理的とは言えないでしょう。
「新しい行動」を毎日試みようとすると、私たちはいつか必ず、そうできるわけがない状況と、対峙する日が来ます。すると、その行動をストップさせるために、脳の「秩序と安定」を望む保守的な部分が、全勢力をもって攻撃をしかけてきます。たとえばこんな具合です。
・30分の英会話の勉強なんてしている場合か?
・勉強を始めて、少しでも会話できるようになったか?
・このやり方で、本当に三ヶ月後に英会話できるようになるか?
・ほかにもっとマシな方法があるのではないか?
・もう寝た方がいい
これらはすべてかなりもっともな言い分であるとともに、これらの言い分は、勉強や新しい行動が困難な状況で、聞かなければならない声なのです。新しい行動を続けると決意した時点とは、心理状態が全く違っているため、これらの言葉に逆らい続けるのは、非常に困難になります。
しかしこれが一日一分の勉強なら、同じような「声」に襲われたとしても、もちこたえられる可能性が高くなります。
・30分の英会話の勉強なんてしている場合か?
→ いや、一分だから
・勉強を初めて、少しでも会話できるようになったか?
→ なってないけど、一日一分だから
・このやり方で、本当に三ヶ月後に英会話できるようになっているか?
→ それは最初から目標にしていない
・ほかにもっとマシな方法があるのではないか?
→ あるかもしれないけど、それだと続かないから
・もう寝た方がいい
→ 一分後に寝るね
ステップを上がったり下がったりする
とは言え、一日一分を三十年間続けるだけでは、何事も「達成」という段階に至ることは難しいでしょう。ただし、人も脳も変化します。大事なのは、一日一分続けることで、脳をかなり変化させることが期待できる一方、全くのゼロでは、ほとんどなんの変化も期待できないことなのです。
何年も前のことだが、多くの聴衆を集めた有名な痛みの専門家の講演を聴いたことがある。痛みは常に薬やほかの医療処置で対処できるわけではないが、瞑想などの精神的手法が、患者の苦しみを著しく緩和する場合もある。
この専門家は、毎日一分間の瞑想を勧めた。私は非常に驚き、講演が終わると直接彼に尋ねてみた。
「なぜ、たった一分間の瞑想が誰にでも効果をもたらすと考えているのですか?」と。私の不躾な質問に対して、彼は寛容な口調で、瞑想というテクニックが生まれてどれくらい経つか知っていますかと尋ねた。
「二、三千年でしょう」と私は答えた。
「そのとおり」と彼は言った。
「だから、聴衆がこれまでに瞑想について聞いたことがある可能性はかなり高い。瞑想に興味のある人なら、すぐに先生を見つけたり、本を買ったり、実践したりしているでしょうね。だが、それ以外の人にとっては、瞑想なんてロクでもない考えなんだ。
そういう人には、三〇分の瞑想よりも一分の瞑想を勧める方がいいと思いますよ。ひょっとすると、それが気に入るかもしれない。そうなれば、やめるのを忘れて、習慣にしてしまうこともあり得るんです」
やっているうちに、先へ進んでいけるかもしれない、というわけです。
ただし、初めのうちはそもそも「先のことは一切考えない」ほうがいいでしょう。
著者は、「最初の小さな一歩」が難なく、自然に習慣化するようになってきて、そのことが楽しくなってきたり、やめるのが惜しくなったら、第二、第三のステップへと移ることを提唱しています。しかし、「どうも気が進まないとか、やらない言い訳を探している自分に気がついたら、もっと小さな一歩に戻るべき」なのです。