世間並みにやらなければならないことは、避けがたいものばかりである。
しかし無視できないからといって「どうしても必要なことだけはやろう」などと思っていると、したいと思うことが多くなるばかりで、自由がきかなくなり、余裕もなくなる。些末なことばかりに時間を取られて、一生がむなしく終わってしまいかねない。しかもそうやって終わってしまったときにさえ、やり残しがたくさんあるはずだ。
だいたい自分の人生はすでに思うようになっていない。いいかげん、余計なことは全部捨て去ってしまうべき時なのだ。
信用を守ろうとすることなどやめてしまう。
礼儀に気を煩わすこともやめてしまう。
こういう気持ちが理解できない人には「あいつは狂った」とでもいわせておけばいい。正気を失って人情が理解できなくなったと思えばいい。
非難など意に介さない。その代わり、この決意を褒められても気にしないようにする。
以上は、吉田兼好の『徒然草』を意訳したものですが、今から700年前に書かれたものとしてはとても近代的というか、個人主義的に見えます。
この時代に「信をも守らじ。礼儀をも思はじ」などというのは、たとえ書くだけにせよ、なかなか決意がいったはずですが、よほど思うところがあったうえの、決意表明なのでしょう。
原文は次の通りですが「やることが多すぎて時間が足りない」というのは必ずしも現代的な問題とは言えないのだと思います。
『徒然草』原文
人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗遠し。吾が生既に蹉蛇たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。
時間と気持ちは切り離せない
「これを必ずとせば、願ひも多く」というところは、私も深く同意します。
よく「やらねばならないこと(マスト)」と「やりたいこと(ウォント)」を分けよというアドバイスがあがりますが、「分けてもあまり意味がない」とタスクシュート的に考えざるを得ません。
時間があまりないというのに「やりたいこと」というのは、やるだけの理由がかなりしっかりしています。つまり、やるとなったらそれはもうほとんどマストなのです。
たとえば私に出版社さんから書籍企画を持ちかけられたとき、本を書きたいと思っていたら、それは一見ウォントですが、来る日も来る日も原稿書きに追われ、娘の相手をしながらでも原稿から手を離せなくなっているときには、それはマスト以外の何ものでもないから書いているわけです。
無視できないからといって「どうしても必要なことだけはやろう」などと思っていると、したいと思うことが多くなるばかりなのです。
この流れを逆転させる以外、時間ややる気を自由に生かす手立てなど、考えられません。やった方がいいことはまちがいない。やるべきであることは必須。どうしてもやりたいこと。そんなことにすら疑問を投げかける必要があるのです。
「諸縁を放下すべき時なり」です。
もう一つ、私はこの段に同意させられるのが、時間と気力の節約のために、常識的とされるようなことまで放棄してしまえば、「あんな行動は受け入れがたい」と非難されるのは当然とは言え、逆に褒めてくれる人の言葉もスルーする、というところです。
人の心というのは、社会的な評価に大変弱いもので、自分の決定したことを非難されたのではなく褒められたときですら、自己決定力を弱めかねないものなのです。
少し違う例ですが、ブログの「初心」として、「アクセス数や評判を気にしないようにする!」などとブログ記事に書いたとします。
しかしその記事に大いにアクセスが集まり、賞賛のコメントが続々と寄せられたりすると、その後ではアクセス数や評価が気になり出すものです。
毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。
こういうのは、よほどの決意をした人の言うことで、しかもそんな決意もちょっと褒められると揺らいでしまって、またしても自由と時間を失うことになりかねないというわけです。
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» 漫画【やる気クエスト】第19話「やる気の砂漠越え」(前編)|岡野 純|note
続きが読みたくて仕方なくなってきています。少年ジャンプにはまったときの気分を思い出します。
第19話では「ブレイン様」がなにやら箴言めいたことを語っていますが、この会話の中にも、兼好法師が「一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗遠し」と嘆いていた理由がでています。
人間、そんなにたくさんのことができるものではないのです。現代だからやることが多すぎる、なんて昔の人のことを軽んじすぎというものです。鎌倉時代でも、事情は同じなのです。