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「会社に行くのがつらい」時に読むべき本、『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』

By: Azlan DuPreeCC BY 2.0


佐々木正悟 そう言えば講談社現代新書はその大半が(全部?)Kindleで読めることを思い出して急いで入手して再読してみました。昔読んで感動したはずですが、昔いったいどこを読んだのかと思うくらい、新しい発見の連続でした。学生時代にはもしかしたら読んでなかったのかもしれません。

» タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)[Kindle版]


「場」を「資格」に優先させる志向性

本書は学術論文を下敷きにしているだけあってちょっと言葉の使い方が特殊です。既読の方には先刻承知でしょうが、ここでは簡単に説明を加えて、誤解されるリスクをとって別の言葉を使わせてもらいます。

本書で「場」というのは「ワク」をもった「場所」に人々が集うことです。本書で強調しているのは「日本人の特殊性」であり、なぜ日本人が特殊なのかというと「場」を「資格」に優先しようという志向性が「世界で比類ないほど強い」からです。

「場」はわかりやすいのです。「家」とか「会社」という「人々が直に接触する場」のことを思い浮かべればいいのです。しかし「資格」とはなんなのか? 「場の人間関係を資格の人間関係に優先する」とはいったいどういう意味か? これがわからないとこの本はとても読みづらいものになります。(もっとも飛ばし読みでもしなければちゃんとわかりやすく書いてあります)。

「資格」とは、これもあまり簡単な言葉ではありませんがここでは「属性」としましょう。たとえば「昭和48年生まれ」とか「AB型」とか「団塊の世代」とか「作家」といった「属性」でも、人は集団を形成するでしょう。実際「作家グループ」とか「28の会」といった会が現実に存在します。ずいぶん古い言葉ですが「同期の桜」も「場」ではなく「属性」による集団です。

日本人は、「場」による集団形成を「属性」による集団形成に優先させたがり、そうする方を「道徳的である」とみなす傾向があるというのです。それも世界に類がないほど強い、というのが本書の主張です。

最初に読んだとき、この指摘がそもそもよくわからなかったのです。それはあまりに私が日本人的思考をもっていたため、「いったいそれの何がおかしいのだろう?」と率直に思いましたし「世界に類がないほど強い」というのはどういう意味なんだろう、というわけでまったく理解が至らなかったわけです。

「場」は結集力が強くない

しかし「場」を「属性」に常に優先するよう、あらゆる人によびかけるというのは、容易なことではないのです。というのも「場」とは「結集力が弱い」からです。私にはこれがなかなか飲み込めませんでした。日本において「家」は「場」です。たとえば私の家庭は核家族ですが「家」の成員である「私」と「妻」には共通の属性が別にありません。「男」と「女」であり、血縁もなく、同期の桜でもなく、同じ学校の出身でもなく、同じ地方の出身でもなく、血液型だって、職業だって違います。

「それの何がおかしいんだろう?」と思いますね。日本人であれば。しかしよくよく「考えて」みれば、集団というのは基本的に「我々」と「彼ら」を分けるものなのですから、そこに「理論的必然性」があった方がわかりやすくはなるはずです。つまり歳が同じだとか、宗教が同じだとか、職業が同じだとか、思想が同じだとか。そういう共通属性が一切ないのに、ただ「場を共有する」から「仲良く一緒に行動できる」というのは、いったいどうしてなんでしょう?

集団が資格の共通性によって構成されている場合には、その同質性によって、何らの方法を加えなくても、集団が構成されうるものであり、それ自体明確な排他性を持ちうるものである。(中略)

 同質性を有せざる者が場によって集団を構成する場合は、その原初形態は単なる群れであり、寄り合い世帯で、それ自体社会集団構成要素をもたないものである。

» タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)[Kindle版]


この指摘はまったくその通りだと思います。しかし日本人はこちらのやり方を「選んでいる」のです。共通の属性によって集まるのではなく、集まる場を1つと定め、そこを最優先して活動することの方をよしとする。となると、そういう「場の集団形成」を明確に維持し機能させていくには、単なる群れであったり、寄り合い世帯以上のものになるか、以上のものにする必要が出てきます。

日本人社会の「変な」慣習

繰り返しになりますが「場」を「属性」に優先することは、不自然でもおかしなことでもないと多くの日本人は何となく思うでしょう。じっさい心理学でも「近接要因」をはじめ、単純接触回数、共通の趣味、共通の場をもつことが好感を呼び起こすことははっきり指摘されています。「共通の場」で衣食などの活動をともにする人と「仲良くやっていきやすい」のは当然なのです。

それどころか「属性」で人間を分けるなんて、むしろ感じが悪いことですらあります。「その同質性によって、何らの方法を加えなくても、それ自体明確な排他性を持ちうる」というのは、言ってみれば「社長の会」を形成して「社長じゃなければこの会には入れません」「社長でなくなったらあなたは会員資格を失います」ということです。日本人はもっと「おおらか」で、こういう何か「閉鎖的」かつ「特権的」な「会」を生理的に嫌っているという感じがあります。

しかし「場」か「属性」かにはジレンマがあります。というよりも、「属性」は「それ自体明確な排他性をもちうる」のに対して、「場」はすでに述べたとおり、一歩間違うと「単なる群れ」で「組織」には間違ってもなれないのです。そこに一緒にいて、何となく意気投合しただけの「群れ」が、「家」や「会社組織」として機能するには、どうしてもこのレベルを脱する必要が出てくるのです。

そこで日本人はおそらくいろいろな発明をしたのです。その諸発明は非常にユニークな効果を発揮して「世界に類を見ない」日本人独特の「場の集団形成」を日本全国で実現させたというわけです。

  • 「場」にいるだけですべてがまかなえるだけのメリットを享受できる
  • 「場」の効果をたえまなくするため接触回数の極端な増大
  • 「場」の成員に一体感を与えるために人間関係を最重視
  • 「場」を組織化するための序列化(タテ社会)


この効果がもっとも端的に表れてくるのはやはり「会社」です。その理由は「会社」はなんといっても営利組織であり、「家」以上に現代では「単なる群れ」であってはダメだからです。「場」はもともと「属性」に比べ結集力が弱いにもかかわらず、あらゆる「属性」をおさえて「場」に人々を献身させるには、「場」に多大なメリットを独占させ、「場」からはみ出すことのデメリットを徹底させなければなりません。

上に挙げた一部の「場のメリット」だけをみても、決して「日本的な場」にさほどいやらしい面は見あたりません。「会社という場」ですべてはまかなえるのです。仕事はもちろん、生活保障、趣味、生きがい、交遊、結婚まで。そんな「素晴らしい社会」である会社にも、建前として「会社という場」には誰もが入れるという開放性があります。「属性」のように「侯爵の血筋をひいてなければならない」などという「非人間的」なことを言いません。

接触回数を増大するために、みんなが同じ時刻に出社するから「仲のいい人にはそこに行けば会え」ますし、「場」にいる人たちが「能力差」や「血縁による差」などの「属性」で差別されないように「努力すれば(「場」に長くいれば)誰もが出世」できます。

言うまでもなく「場のメリットが大きい」ということは「場によらないデメリットも大きくなる」ということです。上にはいいことばかり書きましたが「日本社会(会社)独特の息苦しさ」は多くの人が先刻承知でしょう。しかしそれは外国の人から見えればさぞ「変」かもしれませんが、こういう文脈で見ると決してそこまで「変」ではないのです。

なぜ日本の会社ではみんなが同じような格好をして、同じようなことをしてばかりいないといけないのか。「場」はもともと情緒的に人を結びつける「場」であることを考えると見えてきます。なぜ「無意味な会議」を何度も何度も繰り返すか? 単純接触回数を増やし、情緒的な結びつきを強化するためです。そしてなにより「組織への貢献度(属性)」や「有能であること(属性)」を「場に長くいること(年功)」よりも優先するわけはいきません。(このスパンを短くしたのが「自分だけ帰りにくい」問題です)。

そんなことをすれば「場に居たいから場にいる」「場が好きだから場のために働く」という前提をおかしくしてしまうからです。つまり「会社という「場」に居たいわけでもない人」にとっては、非常におかしな場所であらざるを得ないわけです。

ちなみに以上の話は「いくら何でも古くさすぎる」と思われるかもしれません。それもそのはずで、この本は私が生まれる前に書かれているのです。しかし「なんだかよくわからない圧迫を感じる」とか「残業しないと変な罪悪感を感じる」というときには「(もともと結集力が弱い)「場」の結集力を強めなければならない」というメカニズムが必ず影響していると思って間違いないはずです。

» タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)[Kindle版]


» タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)