週が明けてしまいましたが、先週同様、「発想七日!」のお題に取り組んでみました。ただ、今回のお題は少し手強いというか、ちょっと考えさせる内容です(週末を使って考えてみました)。前回と比べるとコメントもトラックバックも少なめで同じようにあぐねられている方が多いようです(?)。
そんな中、おひとかたトラックバックで参加された方(NEROさん)が、
アドバイス・・・
ん?。なんでしょう。
そういえば直接人から受けたアドバイスで「これ」というものがありません。本から引用するのであれば、いくつか挙げられます。
なんなんでしょうね。たぶん、今まで生きてきた中でいろんなアドバイスをして貰っているはずです。なのにそういうものが意識上に残らず、本からなら引用できるというのはどういうことなんでしょう。1つ思い当たるのは、私自身の「自分で決めたがるクセ」です。本からヒントを得るというのは主体的な行為なので、そこで気づいたことは比較的自分の中に受け入れやすいから、記憶に残るのかもしれません。
直接アドバイスを受けてその通りにやるということは、「自分で決めた」という実感を伴わないので無意識のうちに意識から消してしまっているのかもしれません。
と書かれていますが、あーそうそう、まさにそういうことです!、とモヤモヤが晴れた感じです(ありがとうございます)。
僕自身も、
1.自分で決めたい
2.いままでも自分で決めてきた
3.これからも自分で決めていく
というスタンスでいます。何かしら成し遂げたことが誰かのアドバイスがあったからこそできたこと、であったとしても、最終的に決断を下したのは自分だから、という気負いもあります。このあたりは、
直接アドバイスを受けてその通りにやるということは、「自分で決めた」という実感を伴わないので無意識のうちに意識から消してしまっているのかもしれません。
というところと近いのだと思います。
そして、本に書かれたことというのは、何というか“権威付けされたもの”というオーラが漂うためか、これを標にしてしまいやすいのかも知れません。
自分のことを良くわかってくれている人のアドバイスのほうが、万人向けに書かれた本の中の一節よりもピンポイントでパーソナライズされた内容である(可能性が高い)はずなのに、本当に不思議です。
これに対してNEROさんは、
本からヒントを得るというのは主体的な行為なので、そこで気づいたことは比較的自分の中に受け入れやすいから、記憶に残るのかもしれません。
という指摘をされています。これもなるほど、です。アドバイスを受けるというのはそれが自分から「何か良いアドバイスはありませんか」と相談を持ちかけていたものであったとしても、そこにコミュニケーションが起こると主体性が薄まってしまうものなのかも知れません。
本を読むのであれば、相手はこちらの立場や言い分などお構いなしに、余計なこともいっさい言わず、ひたすら直球を投げてくれます。それが自分にとって好球であれば「良いアドバイス」となるのでしょう。
…などと書いているうちに、ふと受け取ってラクになったアドバイスがあったことを思い出しました。