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脳に入れる情報 | Aliice pentagram

倉下忠憲

» 前回:情報のミニストレッチ | Aliice pentagram

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食物は、栄養になります。
情報は、思考になります。

食物は、口に入れ、体内を巡ります。
情報は、目に入れ、脳内を巡ります。

人は口に入れるものを気にします。工場はどこか、原産地はどこか、どのように作られたのか、誰によって作られたのか。そうした情報(メタ情報)を見て、食べたり、食べなかったりの判断を下します。

では、情報についても、それと同じような判断を行っているでしょうか。行っていないのならば、なぜなのでしょうか。

情報過剰時代の情報摂取

時計の針を戻してみると、戦後間もない時代では、口にするものについてそんなに注意を払っていなかったでしょう。ともかく腹を満たせるものがあればそれでいい。そのような感覚があったのだと想像できます。

しかし、現代は飽食の時代です。栄養過剰時代とも言えるでしょう。私たちの体には(いざというときに備えて)脂肪を蓄える傾向があるので、たくさんの食べ物(それも美味しそうな食べ物)の存在は、単純に肥満を促進させています。一昔前は、貧困がもたらすものは飢餓だったわけですが__もちろん、その問題はまだ現代にも残っていますが__今ではむしろ貧困による肥満が問題にもなりつつあります。

翻って情報です。

情報も、数が少ないころは、細か注意を払う必要はなかったでしょう。それしかないのなら、それを受け入れるしかありません。しかし、現代は情報大爆発時代です。ほんとうに多くの情報が私たちの前に(そのほとんどが無料で)提示されています。

情報もまた、その摂取にある種の快があることを考えれば、放置しておけば過剰摂取になってしまうことは疑いようがありません。どのように摂取するのかは重要な問題です。

それと同様に、「誰が、どのように、なんのために」作った情報なのかも見逃せないポイントになりつつあります。

誰が、どのように、なんのために

その背景には、インターネットの登場によって、情報発信の敷居が大いに下がった点があります。簡単に言えば、玉石混淆感が加速し、情報の正確性について何の信頼性もない情報が飛び交うようになっているのです。同じ状況を「食べ物」で考えれば、かなり恐ろしい気がしますが、不思議と情報では同じような恐怖感は感じません。

しかし、食物が体を作るように、情報は思考を作ることを忘れてはいけません。

「誰が」作ったのか、「どのように」作ったのか、「なんのために」作ったのか。これは相当に重要な要素です。情報がぽんとそこにあったら、それでOKというわけにはいきません。そこにある背景を見ないことには、判断できないのです。

誰が

情報を「誰が」作ったのか、というのは、言い換えれば作り手の「顔」が見えているのか、ということです。

もちろんインターネットでは(本当の意味で)顔が見えることはほとんどありません。また、匿名やハンドルネームが多いので、実際の名前がわからないことも大半でしょう。が、そうしたことは問題ではありません。ようは、その人の継続的な発信が追えるのかどうか、という点です。

継続的な発信を眺めていれば、ある種の傾向を見て取ることもできますし、何が専門なのかもわかるようになってきます。間違いがあったときでも、その人から訂正の情報が上がってくることもあるでしょう。「一度きり」の関係では、このようなことが起こりえないのです。となると、情報についての判断も下せなくなります。

「顔」が見えているというのは、「ああ、あの人の書いた情報だな」ということがわかり、それによって私たちがその情報に何かしらの判断を下せることを意味します。

どのように

情報を「どのように」作ったのかも、重要な要素です。

まったく同じ人でも、しっかり取材して書いた記事と、瞬間的に思いついたことをつぶやいたツイートではその価値は違うでしょう。ごく当たり前の話です。「どのように」作ったのかは、注目しなければいけません。

また、最近(2016年12月現在)強く話題になっているので、あまり言及したくはないのですが、たとえばパクりメディアというものがあります。他の人のコンテンツをコピペ(あるいは多少のリライト)して、「自分のもの」として提出するようなメディアのことです。

このように作られたコンテンツは、二つの問題点を持ちます。一つは単純に著作権がらみで、もっと言えば「真面目に記事を書く人が意欲をなくす」問題を生じさせることです。これはこれで大きな問題ですが、別の問題もあります。

たとえば、パクり記事で構成されるメディアは、情報をあちらこちらから持ってきます。で、参照されるおおもとの記事は専門家が書いていたとしましょう。そうした専門家は当然追加情報があれば、それも発信してくれます。が、パクられて姿を変え、別のメディアに持って行かれてしまった情報は、そのような追加を期待することはできません。

ある種の情報は、文脈の中で捉えてこそ意味があるのに、それが剥奪されてしまうのです。こうなると、バラバラに切り刻まれてリスク評価を誤魔化されたサブプライムローンがらみの金融商品と同じで、そこに含まれる情報の信憑性が判断しえなくなります。

なんのために

「なんのために」は、どのような意図を持って、と言い換えることもできるでしょう。

一番わかりやすいのが「ポジショントーク」というやつで、その意図が分かっているならば情報を割り引いて受け取る必要があります。多くの人が「広告」を見て、「ああ、広告ね」と思うのと同じことです。逆に言えば、それが広告に「広告」という表記をつけなければいけない理由でもあります。

最近では、食べ物についていろいろ細かい表記(原材料やアレルギー情報)を載せるようになっていますが、どうやら目に入れる情報については、まだまだその線引きは緩いようです。だからこそ、現段階では情報の受け手が、そのあたりをシビアに見つけなければいけません。

お金を得るためなのか、物を売るためなのか、自分の地位を上げるためなのか、誰かを貶めるためなのか。どのような意図があるにせよ、情報は必ずその意図に沿って「加工」されます。それを見極めることも、情報摂取の上では大切になってくるでしょう。

さいごに

これまで情報のインプットについて、食べ物を口にすることをメタファーにして、いろいろ考えてきました。この視点は、情報大爆発時代だからこそ重要になってくると思います。

情報は、思考を作る。

だからこそ、その摂取については気配りが必要です。それも、食べるものに気を遣うのと同じくらいの気配りが、です。

まずはこの視点で、身の回りの状況環境、あるいは自分の情報摂取行為を見返してみるとよいでしょう。

▼今週の一冊:

消極性を、消極性のまま受け入れ、さらにその力を活かせるようにするにはどうしたらいいのか? というテーマに関した5つの研究が紹介されています。テクノロジーの話が多いですが、それだけではありません。消極性をどのように評価するのか、という視点が面白かったです。あまり信じてもらえませんが、私も消極的なので……。

» 消極性デザイン宣言-消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい。[Kindle版]


▼編集後記:
倉下忠憲



もしかしたら、この原稿がアップされているころには電子書籍の新刊が発売されているかも(いないかも)です。今回は「目標」について書きました。年末年始にぴったりですね。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。


» ズボラな僕がEvernoteで情報の片付け達人になった理由