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「不機嫌な職場」でのストレスを和らげるために

By: Jordan Johnson


佐々木正悟 この本もやはりずいぶん以前、かなり売れて話題になった頃に読んでいたのですが、なかなかしっくりきませんでした。言っていることがなんだか「古き良き日本文化の礼賛」を下地とした嘆き節に見えてしまったのです。

もちろん「昔の日本はよかった。昔の日本人は優しかった・・・それなのに昨今ときたら・・・ヨヨヨ・・・」と「しゃべる」人がいても自然だと思いますが、そういう「本を読む」となると時間がもったいなくも感じられるわけです。

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しかし本書はさすがにそれだけの本ではないのです。そのことがシゴタノ!でも紹介した『タテ社会の人間関係』を読んだおかげで非常によくわかりました。

「場」は壊れていくもの

『タテ社会の人間関係』の紹介をした前回、私はこんなことを書いています。

しかし「場」か「属性」かにはジレンマがあります。というよりも、「属性」は「それ自体明確な排他性をもちうる」のに対して、「場」はすでに述べたとおり、一歩間違うと「単なる群れ」で「組織」には間違ってもなれないのです。そこに一緒にいて、何となく意気投合しただけの「群れ」が、「家」や「会社組織」として機能するには、どうしてもこのレベルを脱する必要が出てくるのです。

そこで日本人はおそらくいろいろな発明をしたのです。その諸発明は非常にユニークな効果を発揮して「世界に類を見ない」日本人独特の「場の集団形成」を日本全国で実現させたというわけです。

» 「会社に行くのがつらい」時に読むべき本、『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』

「場」に人が群れ集う。それは日本に限ったことではなく、とても自然なことです。海外にも「広場」という「場」がありますし、日本には昔から「風呂場」などという「場」もあります。「場」で人はつながることができ、「場」には集いが生まれます。

しかし「集い」は「組織」ではありません。「集い」で営利競争をやっていたのではとうてい勝ち目はないでしょう。だからこそ「世界に類を見ない日本人独特の集団形成」を築き上げてきたわけですが、相当の努力を続けなければこれは維持できないものだったわけです。そしてその「相当の努力」とは、一見したところ正当化しようのないほど、意味不明で無駄の多いものでもありました。

ちょっと挙げようと思えば、私のように会社勤めの経験が非常に乏しいものにすら、次くらいは挙げられます。

  • 入社何年目というのに妙にこだわる(年功序列)
  • 仕事ができるというだけでは必ずしも評価されない
  • ムダと思える会議がムダに長い
  • サービス残業
  • 終業後の飲み会などに強制的に参加させられる

なぜこうしたことに力を入れるのかは、『タテ社会の人間関係』を読めば、簡単に答えられます。

「場に集うだけの人々」を「組織化する」ために必要なのです。しかしこういったことをして「社員を全人格的に会社という場にコミットさせる」努力というのは、現場の人たちにすらだんだんなんのためにやっているのか、わからなくなっていきます。それ事態が社に利益をもたらすとは思えないし、やっている人には苦痛だからです。

人々が物質的に豊かになって、世の中が「文明化」されていき、世界の情報がもたらされるようになると、外部の(外国の)人に説明しがたいほど、あまりにユニークな「慣習」は、「時代後れ」「前近代的」として否定されるべく圧力がかかってきます。「ここがヘンだよニホンのカイシャ」というわけです。

その上景気が悪くなってくると、単に「ガイアツ」だけではなく、内部的にも効率化を追求する切実な必要に迫られてきます。そういったわけで、会社の収益につながらない、「ここがヘンだよ」と言われそうなことを、できる限り一掃しようとし始めるでしょう。そもそもなんのためにやっていたのかよくわからなかったことなのですから、廃止にしてもいっこうにかまわないはずです。

 効率性を追求するマネジメントにより、会社のインフォーマルな活動はなくなっていった。これらの活動は社員側からも福利厚生面での魅力はすでに失っているという声があったので、会社側としても削減の対象にしやすかったのだ。

 確かに、社員旅行や社員運動会を代表とする社内の集いは、福利厚生という観点からは随分前にその魅力を失っていた。ただし、これらの「場」は評判情報流通機能という重要な機能も持っていたのだ。場の削減と同時に、こうした機能もなくなっていった。

 このような評判情報の量、質が低下することは、人と人が協力関係を構築し発展させるきっかけを失わせたのである。

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「場」と「不機嫌な職場」でも表現されているのには注意が必要です。

この『不機嫌な職場』の中ではこれでもかというほど、効率化を追求した結果として「場」の機能が失われていったことが、具体的に指摘されています。たとえば「社員運動会」の廃止などがそれに当たるわけです。21世紀に生きる人にしてみれば「社内運動会ですか(苦笑)」といったところが本音でしょう。それくらい「場でしかない集団を組織化する」という営みには「ユニークな努力」が必要なのです。

ただ、そこそここれでうまくやってきた日本人である私たちには、この「場の集団を組織化するのは無理がある」ということが分かりにくい。よしんばわかっていても、他のやり方が想像できない。ムリにムリを重ねて「場の集い」を組織化し続けないと、どんなことが起こるのかもイメージできない。イメージできないままムダを排除し合理化した結果起こったことが「職場が不機嫌になってしまった」ということだったのです。それが『不機嫌な職場』が提起している問題です。

今たとえ「不機嫌な職場」と化してしまった職場にしても、もともとそれほどゴキゲンな職場だったかどうかは疑わしい。しかし組織は機能していました。それも非常に強く。ほとんど義務的な「社員のエモーショナルな全面的参加」だけでなく「丸抱え式雇用関係」という絶大な報酬もあったわけです。「会社のみんなと気持ちを一つにして、会社のためにできるだけのことをしたいと思え!」といつも強要されるとともに、「その代わりに一生面倒を見てやろう。結婚相手も探してやろう。旅行にも連れて行こう。家族の面倒まで見よう」ということになれば、相当の組織力を発揮するに至っても不思議はないと言えます。

これだけの組織力を支えていた要素を急速に取り払えば何が起こるか。

一つは生産性の低下である。協力し合えばスピーディに判断・行動できたことが、できない。お互いに押し付け合い、調整に時間がかかる。ちょっとしたお願いが、反発を生み、仕事が止まってしまう。

こうした問題はそもそも、起こって当然のことでした。会社の中における1人1人の仕事の境界線が明確でないところに「場の集団」の特質(長所も)があったわけですから。自分の義務を越えて(自己を犠牲にしてまで)仕事を増やしていけるのは何も「日本人の徳性の高さ」が理由ではなく、たえまなく接触し、たえまなく感情的交歓をして、たえまなく一体感を醸成するという不断の努力のたまものだったわけです。それが接触回数を減らし、感情的交歓をなくせば、自然と全社的一体感などはフェードアウトするので、社員は「自分の義務」の境界線を明確に引くようになるわけです。

Our クレド?

これだけの問題提起が続いたワケですが、ではどうするか?というのは難題です。とりあえず以上のような事態が進行中である、という点を踏まえるだけでもだいぶ違うと思うのですが、『不機嫌な職場』は最近の新書であるだけの「解決案」を呈示しています。そうしないと本を出しにくいのです。

いずれにせよ全員が、個人の利益を超えた共通目標・価値観を「共有化」するための工夫に取り組むことが、大切なのである。

これだけを引用するのでは、フェアではありません。この本にはこの他にも様々な「施策」が提案されています。

ただ私はそのどれにも、分析部分ほどの感銘を受けることはできませんでした。この問題はやはり、困難なのです。人々が感情的な報酬ゆえに、感情的に大きな忍耐心を発揮していたところへ、いきなり「契約」で同じようなことをやれといわれているのです。しかも金銭的報酬だって以前の方が相対的に豊かだったのです。

私個人としては、もともとの一体感に等しいものを取り戻すための様々な工夫は、そういうことが可能な組織であればそれもいいと思いますが、まずは「どうして日本の会社は日本的で、自分にいったいどういう振る舞いを求めているのか?」ということを、はっきり理屈で理解するのが第一歩になると思うのです。これがわからないままでいると、不可解なストレスにずっとさらされ続けて、頭がおかしくなりそうになるからです。

しかしわかりやすくなくともそこに背景と理由が存在していれば、少なくとも頭で理解して割り切ることができます。

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