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脳科学者からの提案「柔らかく成長する」

ゆらぐ脳
池谷 裕二


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池谷裕二さんの『ゆらぐ脳』(文藝春秋)はとても変わった本です。最大の特徴は、テーマと展開がはっきりしないように見えること。とは言え対談ともエッセイとも違うので、なんとも不思議な読み物です。

共著でありながら、事実上、池谷裕二さんの論旨だけが展開されているのも、面白い特徴です。優れたインタビュアー兼ライターが、脳科学の専門家に質問し、そのやりとりの中で、脳科学の知見を解説しつつ、有益な情報を開陳するというつくりなのですが、前面に出てきているのは池谷さんだけです。

このような特徴の本書からはまるで、池谷裕二さんの「脳に関する独り言」が、一冊にまとまったような印象をうけます。

脳の奏でる音楽

本書は、ごく当たり前のことが書いてある本ではありません。所々極めて大胆で、ちょっと常識に反するような話もたくさん登場します。

たとえば、池谷さんはこれまでの研究手法から、一段と先へ行こうと試みているようです。いわゆる「脳の中の様子が見える」MRIは、やむを得ないとはいえ様々な限界を抱えています。池谷さんはその限界に我慢しきれないようです。

 MRIの記録の方法でわかるのは、
 「日本人の平均身長はオランダ人の平均身長より低い」
 というような脳内の各部位の活動の平均値で、これはこれで意味のある情報なのですけれど、
 「各自の神経細胞の個性を見ながら、神経細胞の相互の活動の関係を眺めたい」
 と思いませんか?
 私は、そう思いました。そこで、「多ニューロンカルシウム画像法」という新しい記録方法を改良、開発したのです。

※以下のページから、その様子の一端を垣間見ることができます

これだけでも相当に刺激的ですが、池谷さんはそのうえ、ずいぶんとユニークな試みをされています。なんとこうして得たデータのパターンを音楽に変えて、「耳からその情報を解釈してみよう」というのです。

私たちは、得られたデータのパターンを、目で分析したり、数字に変えて分析したりする方法には慣れています。データ解析というものは、何を使ってするかといえば、目と頭を使うというのが普通のやり方でしょう。音楽に変えるというのは、ちょっと珍しいです。

 効果的な解析の方法を模索する最中では、実験のデータを元に、神経活動を音楽にも変換しています。これは何も遊んでいるわけではありません。
 「この神経細胞の活動はファ♯、あの神経細胞の活動はミ♭……」
 と、音を割り当て活動時間に即して、音楽に変換したら不思議にフワフワと浮き上がるような曲ができました。音楽に変換した理由は、
 「情報を耳で吸収すること」
 にあります。

音楽ファイルを聞くにはクリック(midファイル)

脳は「ゆらぐ」

この音楽を聞いて何を感じるかは、人それぞれだと思います。私は月並みですが、不思議な気持ちになりました。ある意味ではムービーより、「活動しているぞ」というインパクトが伝わってきたのです。

本書のタイトルにもなっている「ゆらぎ」ですが、このキーワード自体は何も、本書から突然登場してきたわけではありません。池谷さんはいくつかの機会を捉えて、脳の「ゆらぐ」という特質について、持論を展開しています。

ですが私はなかなか、言っていることの意味がわかっていませんでした。そもそも「ゆらぎ」になぜこれほどまでこだわっているのかも、よくわかりませんでした。ありていに言えば、「脳は生き物なのだし、ゆらいで当然なんじゃないの?」くらいに考えていました。

しかし本書を読み進めているうちに、(あまりにも私の知りたいことがそこかしこに書かれているので、むさぼるように読んでしまったのですが)「なるほど脳はゆらぐ、そしてこれでは一筋縄ではいかないわけだ」と思い知らされました。

「入力と出力を比較して、中間の演算の形式を知ること」
 は、サイエンスの直球の方法ですけれど、自発活動の「ゆらぎ」の研究でわかることは、
 「同じ入力でも、毎回同じ出力がなされるとは限らないこと」
 なのです。電卓のように、いつでも同じ計算結果が得られるわけではなく、脳では演算形式自体がゆらいでいて、演算の姿形が変化してゆく……つまりサイエンスの得意のブラックボックス理論がここでは成立しません。

つまり脳の研究では「再現性」を頼りにすることができない、ということになるのです。そう考えてみると、これはとてもおかしな話になってきます。脳が常にゆらいでいて、再現性がないのであれば、脳がコントロールしている私たちの活動もゆらいでしまって、再現性がなくなってしまいそうです。

しかし一方で事実として、私たちの生活パターンというものは、なかなか変化させられません。「変わりたい」という人が多く、「一瞬で劇的に変わる○○の方法」があちこちで紹介されているのは、変わるということは容易ではなく、私たちがいつも同じような行動パターンを繰り返してしまうからでしょう。

さらにほとんどの人は、自我同一性を保って生きています。過去、現在、未来と、一貫して「不変の私」が途切れることなく、連続して続くような感じを抱いています。

そう考えてみると私たちの脳は、常に不安定で、同じ刺激を受けても反応が一定しないけれど、にもかかわらず最終的には、一定の範囲内に収まるようなシステムになっている、ということになるでしょう。

柔らかく変化する

なるほどこれでは、「脳を研究する」ということは容易ではなさそうです。脳は実に高度なシステムなのです。コンピューターのように、決まり切った答えを出すばかりではなく、しかし同時に、どんな刺激にさらされても、一定の状態を保つ能力を備えているのです。

そして難しく思えるのは、「変わる」ことです。と言っても、ただ単に「変わる」だけならば、実は難しくないわけです。何しろ「再現性」を見つけられないほど「ゆらいで」いる脳のことですから、「変わるまい」とがんばっても「変わってしまう」のです。「変わる」だけならばなんの努力もいらないとも言えます。

本当に難しいのは、「望んだ方向に向かって変わる」ことです。もちろん私たちが望むのはこちらです。「やせる」とか「英語を話せるようになる」というのは、なんにせよ長期的な行動の変化を要求します。そうするには脳の「出力」を、安定的に変化させなければなりません。

そしてこれが難しいのは、

・安定的な刺激を与えたからといって、常に望むとおりの出力は得られないこと
・一定の枠を超えて「変わる」ことを、脳は押しとどめようとする機能を持つこと

などに原因がありそうです。

以上の要因に抵抗し、実質的に「変わって」行くためには、

・安定的に「出力」を変えるために、手段を豊富に用意し、変化は一点に絞る
・「枠」を壊さない程度の変化から始める

といったところでしょうか。こうしてみると、世の「継続系」の類書が、意外なほど妥当な主張をしているのだとわかります。