クローズリストとは『マニャーナの法則』で定義されている、
- 容易に項目の追加を行わないリスト
のことです。
持ちものリストや「チェック項目」が典型的な実例とされます。
たしかに「出張の持ちものリスト」などは、容易に項目の追加をおこなうことがありません。
『マニャーナの法則』の著者であるマーク・フォースターさんはクローズリストは項目追加が行われないからこそ実行されやすいのに対し、多くのTo-Doなどのオープンリストは野放図にタスクが追加されるために手をつけにくいと指摘します。
これはおおむねその通りでしょう。
「1日のタスクリスト」を形式上は整える「タスクシュート」も、どちらかといえばクローズリストの比喩に載せやすかったこともあって、私もこの喩えを用いて紹介しました。
けれども喩えは喩えであって、「タスクシュートの今日のリスト」というものはクローズリストではありません。
「1日の計画」を上から下までぴちっと「閉じ」て、起床から就寝までピンボールのように、あるいはドミノ倒しのようにパタパタとかたづけていけば毎日のタスクをとどこおりなくこなすことができる、と喩えることはできます。
けれどもこのようにタスクリストをプログラムのようにして、自分を実行処理するコンピュータかなにかのようにとらえてしまうのはムリがあります。
タスクシュートの神髄は下の図の「赤枠」にあります。
あらゆる可能性は未来にではなく現在にある
いま現在にこそ、わたしたちの能力と自由を最大限まで発揮できるということをこの図が示しているのです。
すでにチェックの入っている「過去にやったこと」をやり直したり修正するわけにはいきません。
もちろん後から改めて「やり直す」ことはできますが、過去に戻って別の行動に取り替えるわけにはいかないはずです。
ましてまだやってきていない未来の「空想」をいじったところでなにかをしたことにはなりません。
「365トレイゼロ!チェックリスト!」はまだやっていないのだし、今後永遠にできないのかもしれません。
わたしたちがどうこうできるのはいま現在だけです。
すべての可能性はここにだけあります。
プロジェクトを仕上げるのも、人との関係を修復するのも、病気を治せるのも、すべては現実と肉体を動かせる現在にかかっています。
わたしたちの誤解は「未来を自由にできる」とつい思ってしまうところです。
そうではなく現在だけが自由にできる現実です。
あらゆる可能性は未来にではなく現在にあります。
そのことをつねにユーザーに提示し続けるのがタスクシュートです。