ジャックとメモの木 〜いかにして本は書かれるのか〜



以下の記事を読んで、ふと疑問に思いました。本当だろうか、と。

『話すだけで書ける究極の文章法』、音声入力の使いどころとは? | シゴタノ!

極端にいえば「本を書く」といっても書くのはメモなのです。あとはメモを集め、まとめ、整理し、取捨選択のすえ、編集作業を重ねていくばかりです。この点を頭から誤解していると、本を「書き進めるうちに頓挫する」ことになるでしょう。

「本を書く」といっても書くのはメモ、なのでしょうか。

別に喧嘩を売っているわけではありません。むしろ、半分以上は共感しています。実体験から言っても頷けます。でも、何か引っかかるのです。その引っかかりは、もっと根源的な問いにつながっています。

「いかにして本は書かれるのか?」

先達の方法論

世の中には「作文技術」なるものがたくさん紹介されています。あるいは「論文作成」に関する書籍も豊富です。

では「作本技術」はどうでしょうか。これが案外ありません。

テーマ設定や発想法という大きな取っかかりの見つけ方はあります。逆に実践レベルの細かい文章技術もあります。では、その間の部分はどうでしょうか。

適切なテーマ設定があり、しかるべき文章技術があれば、数万字の原稿がボンッと飛び出てくる__なんてことがあるのでしょうか。もちろん、そんなはずはありません。その間をつなぐ何かが必要です。

それがメモなのでしょうか。

『知の編集術』

まずは、松岡正剛さんの『知の編集術』を引いてみます。

こういう箇条書きのやりかたも重点編集のひとつなのである。ただし、まだまだ長すぎる。もっと簡潔にしたほうがよい。たとえば、こんな風に。

 1 編集は人間の活動にひそむ主題ではなく、方法を取り出すことにある。
 2 デジタルだが堅い編集と、アナログだが柔らかい編集の両方をいかすとよい。
 3 編集(エディット)と編墓(コンパイル)のちがいを活用する。
 
たった三カ条になってしまったが、この程度でもよい。実は、私はこの本を書くにあたっては、こうした箇条書きのようなメモから出発した。そして、それをだんだんふやしていった。ただし、最後まで箇条書きのスタイルを変えてはいなかった。文章にしたのは最終段落になってからである。

箇条書きのメモから出発し、それを増やしていったとあります。つまり、メモです。そのメモを増やし続け、最後の最後に文章にされています。

» 知の編集術 (講談社現代新書)


『ワープロ作文技術』

続いて、木村泉さんの『ワープロ作文技術』から。

ワープロ化したメモは紙に打ち出して持って歩き、気の向いたときに見て思いついたことを書き添えてゆく。たとえば電車の中、面会の前の待ち時間などをそれに使う。紙が書き込みだらけになったら、その書き込みをワープロのファイルに反映させる。その過程でメモのどこかとどこかの間に関連性が見えてきたような場合には、それもワープロのファイルに反映させる。

こちらも似たようなスタイルです。箇条書きというスタイルに限定はされていないものの、メモを書き、それを育てていくフローは同様です。

» ワープロ作文技術 (岩波新書)


『「超」文章法』

野口悠紀雄さんの『「超」文章法』はどうでしょうか。

この点で、パソコンは絶大な力を発揮する。パソコンなら、いくらでも書き直しができるため、気楽に始められるからだ。「とりあえず」始めることができる。パソコンのスイッチを入れ、テーマについて思いつくことを、何でもよいから書きとめてみよう。つぎの日、そのメモを見て、思いつくことを再び書いておこう。こうして、プランなどなくても、とにかく書き始めることができる。書いてみて、あとで直せばよい。

ここでもメモが登場しています。そして、プリントアウトの有無という違いはあるにせよ、メモを書き、それを育てていくことは同じです。

ただし、野口さんは少し後にこうも指摘しています。

ただし、いずれかの時点で集中作業が必要である。メモや短文の集積がある程度の長さになったところで、集中して作業できる時間を確保し、全体の構成を確実に整える。このためには、最低限、金曜の夜から日曜の夜までの丸二日間程度をあてる必要がある。他の仕事には一切煩わされず、これだけに没頭する。本の執筆の場合、このような集中期間が数回必要とされる。こうした大改訂で、文章の構成が一変することもある。

メモを育てて大きくしていった後、「全体の構成を整える」作業を行うようです。しかも、数回の作業がイメージされています。つまり、メモを皮切りにし、それを育ててはいくのだけれども、どこかの段階では「メモ」をメモではなくならせる作業が複数回必要になるわけです。

これは、最初に引いた記事で佐々木さんが書かれている、

メモを集め、まとめ、整理し、取捨選択のすえ、編集作業を重ねていくばかり

の、「メモを集める」以降の部分を指しているのでしょう。

» 「超」文章法 (中公新書)


他の方法は?

もちろん、以上で紹介したような方法以外のやり方もあります。

『知的生産の技術』(梅棹忠夫)では、カードとこざねを使った方法が紹介されていますし、『何を書くか、どう書くか』(板坂元)ではノートとカードを併用した方法が紹介されています。

カードを使ったり、あるいはアウトラインを事前に立てて、それに合わせて書くようなスタイルは、あまり「メモ」的で無いように感じます。

あるいは、ジャーナリストの立花隆さんが『「知」のソフトウェア』で紹介している以下のような「メモ」もあります。

さて、とはいうものの、まるで何もなしで書くというのは、私の場合、普通ではない。普通は簡単なメモを事前に作る。メモには二つの目的がある。一つは手持ちの材料の心覚え。もう一つは、閃きの心覚えである。前者は事前に作り、後者は随時書きとめる。

これも、ここまで紹介してきた「メモを書き、それを育てて、文章として整形する」というものとは違います。

とは言え、やはりこれらも「メモ」なのです。ちなみに、こざねで作成される文章のアウトラインも言ってみれば「メモ」です(※)。
※この辺りで「メモ」の定義が気になってきますが、今回は割愛します。

もちろん、本の書き方など千差万別なので、唯一の方法論を提示することはできませんが、ある種の本の書き方においては、

「いかにして本は書かれるのか?」

という問いには、

「メモを書き、それを利用する」

という答えが返せるようです。

» 知的生産の技術 (岩波新書)[Kindle版]


» 知的生産の技術 (岩波新書)


» 何を書くか、どう書くか―知的文章の技術 (PHP文庫)


» 「知」のソフトウェア (講談社現代新書)


さいごに

まとまった分量の文章__ようするに「本」です__がなかなか書けないという人は多くいます。

おそらく、そういう人は圧倒的にメモが足りていないのでしょう。あるいは、メモを集める行為が足りていないのでしょう。

家を建てるとします。

家を建てるには木材が必要です。

左手に建てるための平地があり、右手に木が生い茂る山があったとしましょう。必要なものは揃っています。しかし、そうした山を眺めているだけでは、あるいはどんな家を作ろうかと頭の中でワクワクしているだけでは、いつまで経っても家は完成しません。

枝を落とし、木を切り倒して、木材にする必要があります。それを平地に持っていき、「さて、これはどの柱に使えるかな」を考える必要があります。

でもって、それが「メモを書き、それを利用する」ことなのです。

▼今週の一冊:

新書なのに、読み応えたっぷりです。というか、すごい分厚さです。

名前の通り現代の思想の流れを追いかける内容で、極めて多重的かつ濃厚なコンテキストで編まれています。現代思想についてはよくわかっていないという方には、インデックス的に使える本となるでしょう。ただ、あまり読書に慣れていないという方は若干しんどいかもしれません。

» 現代思想史入門 (ちくま新書)[Kindle版]


» 現代思想史入門 (ちくま新書)


▼編集後記:




7月に入りました。現在いろいろ進めている原稿も、出口の扉が見えてきました。近々いろいろ出せると思います。あと、月刊群雛の7月号に寄稿しました。そちらもよければご覧下さい。

» 月刊群雛 (GunSu) 2016年 07月号 ~ インディーズ作家と読者を繋げるマガジン ~[Kindle版]



▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。

» ズボラな僕がEvernoteで情報の片付け達人になった理由


▼「R25世代の知的生産」の新着エントリー

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▼「考える技術と書く技術」の新着エントリー

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