精神分析を受けに来た神の話―幸福のための10のセッション 勝野 憲昭 青土社 2008-12-20 |
本書は相当に面白いサイコサスペンスです。本書のような本が面白く展開するためには、いくつか欠かせない条件があるのですが、その大半をクリアできています。読後には「幸せ」と「ストレス」の関係について、頭が整理され、心が解放されます。そういう意味で、「読むだけでストレスリダクション効果」を得ることができる良書です。
話は、「神」が精神分析を受けに来るところから始まります。精神科医を訪れた「神」は、自らを「ガブリエル」と名乗り、生育歴や家族関係は一切明かしません。「神」にそういうものはない、というわけです。もちろん精神科医の方は、ガブリエルのことを「自分が神だという妄想を抱いた患者」と診ます。
したがって、サスペンスのポイントはカブリエルは本当の「神」なのか、それとも妄想にとりつかれた精神異常者なのか、というところにあるわけです。本書のような本を書くとなると、その難しさは、
・ガブリエルをどこまで「神」らしく書けるか
・精神科医のセッションを、どの程度リアリスティックに書けるか
という点にかかってきます。両方がうまくいけば行くほど、本当に神らしく見えるクライエントと、その矛盾を何とかして治療しようと、執拗に、しかし冷静に取りかかる医者との間に緊張感が高まり、読者は引き込まれていきます。
神の悩み
ところで、ガブリエルの行動は最初から矛盾しています。「全能の神」が何のために、精神科医に「悩みの相談」などをしに来るのでしょう? この一点だけからでも、本書の主人公である精神科医のリチャードに、治療の動機が生まれます。
「ガブリエルさん。話を元に戻しましょう。あなたが私を訪ねて来られた理由は何でしょう?」
「私は神です。神として私はここに憂鬱をはらしに来ました」
私は沈黙した。少なくとも事態は少しずつ明らかになってきた。私は精神病者と対面しているのだ。私はガブリエルが取り憑かれている妄想を詳細には説明できなかったが、ガブリエルが偏執狂的精神状態にあるか、あるいは偏執狂的統合失調症であることをかなりの確度で断言できた。
リチャードがこのように直感するのは当然ですが、その後の展開はリチャードが想像するものとはまったく違ってきます。ガブリエルはまったく、偏執狂的な特徴も分裂症的な特徴も、見せてくれないのです。基本的に精神科医は「症例主義」をとっているため、特徴的な症状がまるでないのに、特定の病名を患者に当てはめることはできません。ガブリエルはあまりにも「正常すぎる」のです。
しかしだとすれば、ガブリエルは本当に「神」なのか? もちろん精神科医として、そんな考えを認めるわけにはいきません。それにガブリエルを真の「神」とみなすことは、即座に自分を「神の精神科医」とみなすことにもなってしまいます。この考えも、リチャードには受け入れられません。だからリチャードとしては、何としてもガブリエルを「治療」しなければならないのです。
「今、君を一番悩ませているのはどんなことかね?」まず私が訊いた。
(中略)
「それはこうだ。人々は皆、神である私を完全無欠な存在であると考え、またそう信じていること、また私がこの世界の全てを知る賢明な宇宙の創造者で、自分が望むことは何でも実行できる存在だと思い、そう信じていることだ」
「君の言う『人々が信じていること』は、今までの君の口ぶりからして真実じゃないのかね?」
「いや、人々がそう考え、そう信じている姿は私の真実の姿ではない。それが問題なんだ、リチャード。人々が私のことをそう考え、そう信じていることは、そう考え、そう信じたいことにすぎないんだ」
「じゃあ、君の正体は一体何なんだ?」
「多くの意味で私は普通の人間だ」
「だが神が普通の人間であることは殆どあり得ないよ」
「私が抱えている問題は他の全ての人間が抱えている問題と同じだ」
「それは伝統的な考え方とは相当違うね。誰でも神には欠陥などないと思っているよ」
「それはお笑いだ。この宇宙は完全であると同時に不完全なんだ。この不完全が神である私に当て嵌まらないなんておかしなことと思わないかい?・・・」
このやりとりは、一見奥が深く、健全な議論に見えますが、精神科医であるリチャードにしてみれば、妄想を抱いている患者と健全に議論しているということ自体が、治療を難しくさせてしまっています。「神」を追い詰めていかない限り、ガブリエルが妄想から解放されることはなく、話は平行線をたどるだけです。
ではガブリエルは、本人の言うとおり「普通の人間」なのでしょうか? リチャードの立場では、これも認められないのです。なぜなら「普通の人間」は、自分のことを「神だ」などと自認していないからです。このセッションは、主人公も認めるとおり、どんどんと難しくなっていきます。
精神科医自身のための精神分析
この後の展開を簡単に「読める」という人も多いでしょう。しかし、展開が読めても興味深くないとは、限りません。でなければ、誰も本を二度読み返したりはしないでしょう。
ガブリエルが神ではない、というリチャードの信念は、どんどん難しい立場に追い込まれていきます。本当は反対にならなければいけないにもかかわらず、です。ガブリエルは途方もない能力で、リチャードの心を読む。しかしリチャードはこれを、特異な心霊能力を持った精神障害者のなせるわざと考えます。リチャードは物理学者ではないのです。しかしある意味では大変「頑固な科学者」です。
ガブリエルはまた、25桁同士のかけ算をたやすくやってのける暗算の達人です。リチャードはもちろん、暗算の達人であることを認めても、神だという証拠にはならない、と考えます。ガブリエルの人並み外れた記憶力についても、むしろ精神障害の証左であることを意識に入れます。
ですが、これだけの能力を持っていて、しかもどこをとってもほとんど正常。これでは、ガブリエルを「偏執狂的な妄想の持ち主」とみなすことが難しくなるのは当然です。そのときふと、リチャードは、自分こそ、ガブリエルという妄想を心に抱いているのではないか、と頭をよぎります。しかしこれもまた、あまり面白くない考えとしてしりぞける。
そうすると残るのは、「ガブリエルの話を聞く」ということだけになります。議論をしても、「治療」をしても追い込めない「妄想の持ち主」を前にしてできるのは、それしかなくなるというわけです。この課程の中で、徐々にリチャードは、「神」によって、癒されていく。ただしあくまでもそれは、「神」という妄想を抱いた患者に、という意味でです。
神の「自己防衛」
本書の基本的な読み方の1つは、リチャードと一緒になって、ガブリエルの「妄想を取り除く」べく努力することです。(逆に、つまらなくなりそうな読み方としては、ガブリエルの「神の言葉」を拾い集めることでしょう)。ガブリエルは、「神であるという妄想」を抱いていること以外は、完全に正常な人間です。
その人間の「間違いを取り除く」という努力は、どうやっても自分に跳ね返ってきてしまいます。「ガブリエルは間違っている。だから正しく直してあげなければならない」。こういう言葉を使わなくても、リチャードのやっていることは結局これです。しかしそうするには、ガブリエルは「あまりにも正しすぎる」。
私たちは誰でも、「あなたは間違っているから、正しく直されなければならない」と言われると、強いストレスを受けます。ストレスを受ける原因というのは、結局これです。この言われ方は、自己保存に沿って生きている私たちの本能に反するのです。ですから、本当にストレスに対処したいと思えば、必ずこの部分を分析しなければならないわけです。
本書は明らかに、そのような視点から「精神的な苦痛」という問題に光を当ててくれる作りになっています。だからこそ、「読むだけでストレスリダクション効果」を得ることができる良書なのです。
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