意識的にやろうとしたことはありませんが、書いているうちに自然とこれをやっているのです。
ブログは「考え」を接いでいくための手段
このブログの記事を書くとき、いつも欠かさずやっていることがあります。
それは、これから書こうとしている内容について、それと同じか、あるいはそれに近いことをすでに書いていないかを確認すること。
今年で12年目に入ったので、書いたことをすっかり忘れている記事もあります。でも、読み返すことで「あー、確かに書いたなこれ」と思い出せます。でも、同時に「ここまで考えていたっけ? ホントに?」と我ながら信じがたく感じることもあります。
でも、自分が書いた記事である限り、そのときの自分はそのことを確かに考えていたのです。考えたことそれ自体が失われても、その痕跡である文章は後に残すことができます。
痕跡さえ残っていれば、これを辿ることで、100%とはいかないまでも、そのときの自分の頭の中の状態をある程度は再現することができます。
ドライブにディスクをセットし、「再生」ボタンを押すことで、過去の“収録内容”が「今ここ」の視界に再現されるように。
このような再現行為こそが「考えること」だと僕は考えています。そのままでは失われるばかりの記憶を、たとえ不完全な形であるにせよ、可能な限りの完全性で記録に残し、後にこれをひもとくことで、時空を超えて少しずつ完成度を引き上げていくことができます。
「考えを接いでいく」という表現がありますが、まさにこれを実現するための手段が「書き残す」ことであり、僕がブログを続けている(続けられている)のはまさにこれがあるからだと「考えています」。
自分でもすっかり忘れていましたが、昨日ご紹介した高田明さんの言葉は、これまでに都合4回も言及していました。
2005年を皮切りに、2010年、2015年、2017年(昨日)と、5年刻みおよび12年一区切りという、結果としてキリのいいタイミングで言及していることが、たまたまかもしれませんが、興味深く感じます。
» 2005年:そんなに仕事をがんばるのはなぜ?
» 2010年:不安で何も手につかなくなった時のための5つの問い
» 2015年:『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』を読んで、僕が考えたこと
» 2017年:12年越しの「長期計画を立てない生き方」
記憶がウエハースのように、折り重なっていくうちに押しつぶされて圧縮され、元の形をとどめられないのに対して、記録は鉄筋コンクリートの建造物のように骨組みがしっかりしているためにそこに生じる各区画の中身は時の風化の作用を受けることなく、元の形が保たれるのかもしれません。
ちょうど、古代の昆虫が琥珀に包まれることで、その姿を現代にまで伝えることができたのと同様に、です。