私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) | |
平野 啓一郎
講談社 2012-09-14 |
とりあえず「分人」の説明を先にします。
分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) 平野 啓一郎 講談社 2012-09-14
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たとえば私なら「反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格」を大橋悦夫さんに対して形成しています。これはいわゆる「仮面」ペルソナといったものとは違います。私は「大橋悦夫さん用に見せる自分」を「意識的に演じて」いるわけではありません。それでもたとえば「自分の娘」と関わる私の分人と、大橋さんと居る時の分人とは、全然別人のようです。
あいにく私はずっと首都圏で育ったため、これといった方言を話せませんが、妻は、私には共通語を使い、彼女の両親には秋田弁で喋ります。彼女はべつに意識的に使い分けなどしていません。「自然とそうなる」のです。
方言と分人は興味深い現象で、こういうのを聴いて気を悪くする人がいるくらいです。「あいつは秋田弁を恥ずかしがって隠している」などと言い出すのです。これは分人を「仮面」と考えている典型的な例ですが、分人はもっと、相手との相互作用において生じてしまう概念です。
念のために一例を追加しておきますと、妻は幼稚園の娘の前で「めろんぱんなでちゅー!」などの幼児言葉を頻繁に用いますが、それを幼稚園の先生には使いません。これは当然でしょう。誰も「あいつは幼児言葉を隠している」などとはいわないはずです。
分人殺し
いきなり穏やかでない小見出しをつけてしまいましたが、もっと深く分人について知りたいという人は、平野さんの本に直接あたっていただくとして、ここでは分人という考え方から得たいろいろなヒントのうち、特に「心がへこむ」問題を取り上げます。
私達は、ときどき、他人から見るとかなり奇妙に思えることを、極めて自然な動機づけのもと、やらざるを得ないと感じることがあります。かなり極端な例として「自傷行為」があります。そこまで行かないでも、妙に自責の念に駆られたり、自罰を繰り返すことがあります。
そんなことはしないという人もあるかも知れませんが、たいていの人は「心が凹んで回復しない」とか、つい「あの時のこと」を思い出して、自分がいやになる、などと言うことはあるはずです。職場の失敗をいつまでもクヨクヨ思い悩む、というのは、広い意味で自傷行為だと思うのです。自分で自分を苦しめているからです。
これに対して「過去の失敗を思い悩んだところでそれはもう取り戻せないのだから、いつまでもそんなことをしてないで、どうすればこれから失敗しないか。未来のことを考えよう」というきわめてまっとうなアドバイスがあります。もちろんそれがいいのでしょうが、なぜかそうできない人が多い。私もそうです。いつまでも悩んでしまう。これはなぜなのか。
分人が仮面とは違うからです。分人は、自分のものですが、自分だけのものではない。失敗したのは、たとえば会社の上司との間の分人です。分人は、好みに応じて自由に出し入れできるほど、手軽なものではありません。家族に愚痴を言ったりして、家族との分人を活性化させ、上司との分人を沈静化する。あるいは親友との分人を活性化する。そういうことには効果がありますし、だから私達はそうしますが、けっこう時間がかかります。それに、翌朝にはまた同じ上司と顔を合わせ、いやが上にも「不快な分人」を再活性化させることになります。
中には、ポジティヴな分人もあれば、ネガティヴな分人もある。なるべくなら、ポジティヴな分人だけを生きていきたいものだが、現実の込み入った人間関係の中では、なかなかそうもいかない。不本意ながら、あまり生き心地の良くない分人を抱え込んでしまうことは避けられない。
イヤな自分を生きているときは、どうしても、自己嫌悪に陥ってしまう。あの人と一緒にいると、どうしてこんなにイライラするんだろう? なんであんなにヒドいことを言ってしまったのか? あの会合に出席すると、急に臆病になって、言いたいことも言えない。
しかし、分人が他者との相互作用によって生じる人格である以上、ネガティヴな分人は、半分は相手のせいである。
心が凹む、傷つくとは、発生してしまった不快な分人を黙らせたい、整理したいということなのです。もっと言えば、整理しようとしているのです。整理の究極形は、処分です。
何か悪いことをした時というより、どっちかというと、恥ずかしいことをして、その場面を思い返してみるような時だった。あの時の自分を、記憶の中から消してしまいたい──傷つけたいとか、殺したいとかいうのではなく、自分のアイデンティティの中から抹消してしまいたい、という感覚である。ただ観念的に消すといっても、手応えがない。そこで、何か強い苦痛が感じられると、そのあるべきでない自分の姿が否定された実感が得られ、癒されるような心地がするのである。
このようにして「自傷という癒やしの手段」が説明されていますが、私はこれに感銘を受けました。分人というのは、自分でありながら自分だけのものではないから、不愉快な分人でも、抱え込まざるを得ない。それがいやなら相当のレベルで引きこもるしかなくなる。
しかし一方で、分人というのは自分だけのものではないけれど、自分の全体でもないから、もはや自分ではない、とすることもできる。つまり自分のアイデンティティから切り離してしまう。
自傷行為は、自己そのものを殺したいわけではない。ただ、「自己像(セルフイメージ)」を殺そうとしているのだと。だから、確実に死ぬ方法を選択しない。いや、むしろ逆じゃないのか?
いまの自分では生き辛いから、そのイメージを否定して、違う自己像を獲得しようとしている。つまり、死にたい願望ではなく、生きたいという願望の表れではないのか。
筆記療法を分人という観点から、見直す
以上はしかし、極端な事例です。このくらいの事例を紹介しないと、分人という概念がなかなかイメージされず「ペルソナの言い換え」くらいに思われそうなので、こういう話を書いてみました。
私はよく言えば穏やかに、悪く言えば生ぬるく生きたいというライフハッカーですから、たとえ死ぬ気はないにせよ「自傷行為」とか「精神的自罰」というのは荒っぽく、痛々しく感じます。効果はそれより低いにせよ、もう少し穏健な方法が欲しい。
と思うとやっぱり日記なのです。読者のテンションがここで一気に落ちそうですが、「分人会議」という観点から、日記をもう一度とらえなおしてみたいのです。
「僕の小規模シリーズ」でヒットしたマンガ家の福満さんがしょっちゅう、打ち合わせなどの席で「僕はですね僕はですね僕はですねがっはっは」と「やってしまって」、後から家に戻ってきて「死にたい……」とくらーく落ち込むシーンを描いています。
この時にこそ、私たちは慎重に、消してしまいたい、生きるのを止めたいのは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人だと、意識しなければならない。誤って個人そのものを消したい、生きるのを止めたいと思ってしまえば、取り返しのつかないことになる。
当然のことですが、なにも死ぬことはないのです。「がっはっは」はその席の分人の仕業であり、「半分は一緒に居た人間の責任」くらいにしておくべきです。というよりも、それは事実です。
それに「一部の分人の行動」は、他の分人のあずかり知らぬことです。そこで検討されるべきは、「死にたくなった分人の仕業」を他の分人「たち」とどこまで共有されるべきか、という問題なのです。「あずかり知らぬ分人」と「恥ずかしい分人」はどこまで統合されるべきか、または「恥ずかしい分人」は自我の中で隔離されるべきなのか?
これに対する簡単な一般解などありません。しかし私は、直感的に、結局分人たちはゆるやかにせよつながっている。1個の分人が完全に分人ネットワークから独立してしまえばそれはフーグと呼ばれ、一歩間違えば多重人格の入り口です。
もちろん、私達の誰もが忘れてしまった過去の分人を抱えているでしょうし、忘れていた方がいいこともよくあります。しかしそれは意志的な隔離とはまた別のことです。
不幸な分人といえども、分人ネットワークにとりあえず組み込まれるべきであり、しかし、それが他の幸福な分人全体を圧迫するようであってはならないことを了解するのに、日記やライフログが有効だと思うのです。
平野さんが「分人の構成比率に注意せよ」という意味のことを本の中で何度も言っています。それは、結局分人の全体に注目せずにはできないことです。
本書から私は極めて多くのことを学びました。日記やライフログや「病的なくらい偏執的なタスクシュート」を運用している意義も、再確認できた気がします。それについてはおいおい考察しつつまた報告します。
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空白を満たしなさい | |
平野 啓一郎
講談社 2012-11-27 |
「分人」についてはいろいろな面から知ることができます。平野啓一郎さんは有名な作家でもありますので、小説でもこの概念を用いています。
分人は目新しい概念ではない、という人もあるでしょう。目新しさにやたらと重きを置くのもどうかと思いますが、たしかに社会学の中にも似たような発想は見受けられます。当然社会心理学の「役割」に関する研究には、こうした発想を見つけることはできます。
私自身も「別人問題」とか「ロボット」という発想を駆使すれば、近いことを説明できるかもしれません。
しかしたとえば本エントリにはまだ書いていませんが、私は子供のころ病弱だったこともあり「病気と関わる分人と寂静感」という問題を、自分の中に発見しました。これは社会学の役割という概念や「ロボット」からでは考えつかなかったことです。
「分人」という概念と用語だからこそ考えついたのです。このように思考をより豊かに発展させうる新概念は、やはり「目新しくない」という理由で簡単に切り捨てていいものではないのです。