昨日までにTwitterでご紹介している記事のうちグッときたものをピックアップ。
自分のやりたいこと、目指すものの為に、楽しいことを「一旦でも」いいから断ってみると、色々なものが見えてくるかもしれません …
この記事を読んでふと思い出した本があります。
思い出したというより、その本を2回目に読んだ時に思わずその場で繰り返し繰り返し読みふけってしまったくだりがフワッと舞い降りてきました。
そもそもこの本は、高校時代に読書感想文の課題図書として半ば強制的に読まされた一冊。
当時は「課題だから仕方なく」読み、課題を提出した後はずっと書棚にしまわれたままになっていました。当時の感想文を残しておけば良かった、と悔やまれますが、まぁ後の祭り。
ともあれ、紆余曲折をへてこの本との再び出会ったのは社会人3年目の夏、1998年7月31日のことでした。
この日、問題のくだりにぶつかります。
かなり長いのですが、引用します(読みやすくするために適宜改段しています)。
情操的魅力と専門的魅力を巡る葛藤
情操的魅力というものが一生をかけて徐々に獲得されるのに対し、専門的魅力の方は、数年間でもよいから、自分の選んだ何かに一途に打ち込むことによってのみ得られる。
全てを犠牲にして、狂人の如く没頭しなければならない。常識的レベルでの努力では、何年かけてもいかなる迫力も滲み出て来ないだろう。これは、巨大なる精神的および肉体的エネルギーを必要とするから、若い時にしか出来ない。
青年が何かに没頭することが出来れば、それは何であってもよい。
学問でもスポーツでも金儲けでも何でもよい。
そのような何かを見出しただけで幸せと思ってよい。
後顧の憂いなくそれに打ち込めばよい。一時期ならば、文学や音楽を放棄しても、情操的成長を犠牲にしても構わないから、迫力を持って自分の道を進むべきである。その間に専門的成長だけしかなし得なくとも、それだけで大したものである。
この2つの魅力の存在は、誰でも認めるところであろうが、この同時には得難い二者の葛藤に、巻き込まれる人は多くはあるまい。両者とも自分のものとしたい、と切実に願う人間が必ずしも多くないからである。
しかし学問を志す人に限って言えば、一度はこの両者を真面目に考えるべきである。
情操的成長を軽視あるいは蔑視しながら通り過ぎることだけは、しない方がよい。情操生活を犠牲にしているという事実をしっかり確認し、額に刻印をほどこした上で、学問に打ち込んで欲しいのである。
それが、かけがえなく大切な物を犠牲にしてなお進む人間の、せめてもの償いであり、妥協を許しながら歩く人間のぎりぎりの免罪符である。
そして10年先でも20年先でも、研究が一段落をした時に、この免罪符は是非とも返して欲しい。額に刻印することなく、情操的成長には無関心のまま生きるのも本人にとっては苦労がなくてよいかも知れない。
しかし何かを欠いた彼の人生は、淋しく物足りないものになるのではないだろうか。真に偉大な何人かの学者を見る時、その若い時はさておき、ある年齢を経た後では、この一見両立し難く見える2つの魅力が、人間の最も深い部分において、見事な親和力をもって結びついているように思えるのである。
当時の僕は、生まれ故郷の東京を離れ、大阪でエンジニアとして忙しくも充実した毎日を送っていました。
大学卒業後、文章を書くことを仕事にしたい、と思いつつ、コンピュータへの関心も捨てきれなかったことから身を投じたSIer。
東京採用だったものの、入社後半年は大阪本社で研修。そのため初めての一人暮らしを会社の寮がある尼崎市で開始。研修アップ後もそのまま大阪配属となり、都合4年間を大阪で過ごすことに。
今でこそ東京と大阪は近く感じますが、当時は自由に使える時間もお金も限られていたため、ひどく遠くに思えました。
寂しさを紛らすための飲み友だちもおらず、今のようなソーシャルメディアもなく、えんえんと続く会社と自宅の往復の日々の中で、何か人生がすり減っていくようなむなしさをほのかに感じていました。
仕事そのものは性に合っていましたし、会社からも一定の評価が得られていましたし、これといって疑問も不満もなかったのですが、いつしかそれとは別のもう1つの生き方を妄想するようになります。
妄想ではおさまらず、小さなメモ帳を肌身離さず持ち歩き、いつ書くことになるのかもわからない文章の断片を、仕事の合間のわずかな時間、トイレの個室にこもって書き付けたりしていました。
そんな折にぶつかったのが先ほど引用したくだりです。
一時期ならば、迫力を持って自分の道を進むべきである
とりわけグッときたのは、
一時期ならば、文学や音楽を放棄しても、情操的成長を犠牲にしても構わないから、迫力を持って自分の道を進むべきである。その間に専門的成長だけしかなし得なくとも、それだけで大したものである。
という一節。
「文章を書く」という夢はいったん脇に置いて、目の前の仕事に没頭すればいいんだな、と急に吹っ切れたのです。
その直後、Excel VBAというものに出会い、そのまま没入していくことになります。
この本のおかげで、その後の2年間、会社員として燃え尽きるまで、“免罪符”を胸に秘めて走り抜けることができたのだと、今では思っています。燃え尽きたあたりの話についてはまた改めますが、ここで身につけたことが今に生きていることは間違いありません。
一時的であれ、もやもやしていることを一度すっぱりとやめてみると、新たな地平が開けてくるのかもしれません。
おあとがよろしいようで。
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