大学卒業後、Nは母校である女子校で数学科教師となる。
実際に教えているところを目にしたことはないが、披露宴の終わりの挨拶は実に落ち着いた安定感のある話しぶりで、普段から人前で話している人は違うな、と感心させられた。
折に触れて思い出すのはこの挨拶の中で彼女が口にした以下の言葉。
「皆さんの誰か一人でも欠けたら、今の私はここに居ませんでした」
自分を含め、結婚式に出席している人は例外なく、新郎か新婦いずれか、あるいは両方と過去に何らかの接点を持っている人である。
この共通点を踏まえての、
皆さんの誰か一人でも欠けたら、今の私はここに居ませんでした。
という一言は出席者全員にもれなく「あ、こんな自分でも彼女の役に立てていたのか」という承認を与えるものであり、反論の余地がない。
「皆さんのおかげです」と一括りに扱われるよりも、「誰一人として欠かせなかった」と包括的ながらも個別に扱われたほうが、心に響く。
当時の自分の心にも大いに響き、15年たった今、こうしてここに書くに至った。
どこでどんな接点を持つかは予測できない
大学時代の学部同期Mが卒業後に某生命保険会社に入社、ほどなくしてニューヨークに赴任。
ときどき現地の様子をメールで知らせてきていた。
彼からの何通目かのメールの中で、当地で起業した日本人と知り合い、意気投合したことが綴られていた。
阪本啓一さんという方だった。
著書(訳書)の『パーミションマーケティング』をすぐに買って読んだ。
Mの紹介がなければ、仮に自力でこの本を見つけていても読まなかったかもしれない。
阪本さんの本はその後も読んでおり、メルマガも購読し、セミナーにも参加し、ブログ(現在はnote)も購読している。
そんな阪本さんの最近のnoteで『パーミションマーケティング』の翻訳をすることになった経緯が書かれていた。
ニューヨークで評判のオフ・ブロードウェイ・ミュージカル『デ・ラ・ガーダ』の当日チケットを買いに劇場まで行ったが、販売は正午からだった。
時間つぶしにユニオン・スクエア北のバーンズ&ノーブル書店に入った。ここは映画『ユー・ガット・メール』舞台になった。
1999年5月。ぼくは、ある商品のインターネット・マーケティングに悩んでいた。インターネットでマーケティングする、というのはまだ世間的には白紙に近く、方法論も何も確立していない頃だ。平積みの中から目に飛び込んできたのがこれ。
おっちゃんの丸坊主アタマ。やられたー! なんというとんがった表紙なのだ。手に取ると、ページめくるのがもどかしいほど。床に座って読み続けた。発売が5月1日だから、まだ3日しか経ってない。これは是非日本に紹介しなければならない。誰が翻訳する? 自分しかいない。その頃、ぼくは本を出版したこともなければ、そもそも英語の本をアタマからしっぽまで読んだ体験は数えるほどだった。まして翻訳経験、ゼロ。
この偶然がぼくの出版デビューにつながり、大ヒット、会社辞めて独立、翌年ニューヨーク起業へのドアになった。
自分が今いる“場所”は、どのようにしてたどり着いたのか?
自分が今いる“場所”について改めてふり返ってみる。
今いるこの“場所”は夢にまで見た、長らく目指してきた、何度も下見を重ねてきた“場所”、というわけではない。
目的がなかったわけではないものの、その時々の“潮”の流れに身をまかせて接触をくり返しているうちに気がついたらたどり着いていた。
これまでに重ねてきた接触のどれか1つでも欠けていたら、今いる“場所”にはたどり着けなかったかもしれない。
自分だけでなく、あらゆる人が同じように接触を重ねながら、好むと好まざるとに関わらず偶然に身をまかせて動き続けている。
さながら広大なビリヤード台の上で、無数のボールがほかのボールと接触をくり返しながら動き続けているイメージ。
運悪く(運良く?)ポケットに落ちてしまうボールもあれば、台の上を動き続けるボールもある。
どのような軌跡を描いたのかをふり返ることはできるかもしれないが、同じ動きを再現することは難しい。
同じ軌跡を描くための同じ接触が再び同じタイミングで起こるとは限らないからである。
そう考えると、何かを狙ってこれを手に入れるべく視野を狭めて一意専心するより、何も考えずに視野を広げ、いま目の前にあることを楽しんだ方がいい。
ここまで書いてきて、14年前に読んだ『偶キャリ。』という本を思い出した。
「何も考えずに視野を広げ、いま目の前にあることを楽しむ」とは本書で言うところの「本能」に従う姿勢。
しかし、よく考えてみると、「直感」や「ピンとくるもの」は人間の本能である。
危険を察知したり、気配を感じたりする能力は、まさに動物にとって生存のために必要なもの。
であれば、その逆のこと──成長につながるチャンス、素晴らしい人との出会いなどの「偶然」──が起こる前にその気配を感じて、それが確実に起こるような働きかけや行動を本能的に取るということも、生きていくために必要なのではないか。
そうすることによって、「偶然」は必ず起こる「必然」となる。
そして、今日ここまで書いてきたことのまとめのようなくだりがあったので、以下に引いておく。
“いま”を犠牲にせず、「きちんと楽しむ」ということは、将来への「負の遺産」を残さないということでもある。
“いま”の不満や不完全燃焼は、先送りしてもおそらく解決しない。
今日をちゃんと生きること、今日を明日の言い訳にしないことが、素晴らしい「偶然」の種を蒔くことであり、出会った「偶然」を逃さずキャッチするためのスタンスなのである。
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