『独学大全』を読む その4「本を読むこと」

カテゴリー: R25世代の知的生産



引き続きで、『独学大全』を読み込んでいきます。

今回は第3部「どのように学べばよいかを知ろう」の前半です。

さまざまな読書の技法

第3部は、第12章から第15章までの四つの章で構成されているのですが、第12章に十三個というたっぷりな技法が集約されているので、まずは独立してその部分だけを読んでいきましょう。以下の技法たちです。

読書の技法

さて、なぜこれほどたくさん読書の技法が紹介されているのでしょうか。

一つには、独学では読書が主要な学びの素(学素とでも呼びましょう)となるからです。師匠に教えを請えるならそれはもう独学ではないわけで、誰かからというよりも何かから学んでいくしかありません。

その際、現代では動画なども選択肢に入ってきますが、やはり書籍の強みはあります。自分の理解の速度で進められること、何度も行ったり来たりできること、紙面に直接メモを書き込めること、そして本という文化の「分厚さ」などです。

特に一番最後の点は重要で、いくらYouTubeにたくさんの動画が挙がっていても、どうしてもコンテンツには偏りがあります。一方、その規模すら推測不能なくらいたくさん発売されている本は、探せばだいたいのコンテンツがあります。自分が求めているものそのものでなくても、それをかするものは見つけられます。これは、ニッチな分野を探究するほど差として出てくるでしょう。
*逆に流行の技術についてはそこまで差はないかもしれません。

が、そうした点以上に、本書において読書の技術が「これでもか! これでもか!」と詰め込まれているのは、著者ならではの思いがあるのでしょう。

9割の人が知らない「本を集中して読み続けられない」を解決するスゴ技 | だから、この本。 | ダイヤモンド・オンライン

読書猿 実は、本を読むのが恐ろしく苦手な子どもでした。おそらく生まれつきの脳の仕様の問題だと思うのですが……一冊の本を続けて読めないんです。少し読むと連想が爆発して、ヘトヘトになってしまう。学生時代は長くて20分くらいが限界でした。

独学において書籍が有効なのは細かく論じる必要がないくらい、多くの人の共通認識になっているでしょう。むしろ、本を読んでいる人(特に小説でない本を読んでいる人)を見かけたら、「あの人は勉強家だ」と思うかもしれません。それくらい、学ぶことと書籍は認識の中で結びついています。

そうであるがゆえに、読書が苦手な人は、「私は学ぶことができない」と諦めがちです。独学において読書が有効であればあるほど、読書が苦手な人は独学から遠ざかってしまうのです。

しかし、著者はそれに「否」と言います。「断じて否」と。

上の記事からもう少し引用します。

知りたいことを知るために本を読むなら、「夢中になっていっきに読みました」なんてことは、一切必要ないんです。知りたいことが書いてある箇所を、知りたいタイミングで読む。

また別の日に、違う知りたいことに出会ったら、また別の箇所を読む。

あるいは、最後まで読んだ本であっても、何年か経った後に、思い出したフレーズを探して開いたり、その時、別の忘れていた言葉に胸を打たれたり。読書とは本来、そうして何度でも再読しながら本と付き合っていくことです。

とても大切なことであり、本書においてたっぷりの「読む」技法が紹介されいる理由でもあります。

読む=通読、ではない

たとえば、本の読み方のさまざまで言えば、『本を読む本』が有名です。この本では、シントピカルリーディングにまで連なるさまざまな読書の方法を紹介しています。また、そうした読書と娯楽のための読書が異なる点も指摘しています。



本書を一読すれば、「本を読むといってもいろいろあるよな」ということは理解できます。が、一つだけずっと疑問に感じていた罠があります。すなわち、「まず、この本を読み通せる力ないと、この理解には至れないよな」という疑問です。

再帰的に遊ぶなら、『「本を読む本」を読む本』が必要であり、その本も通読できないなら、『「「本を読む本」を読む本」を読む本』が必要でと、括弧の対応がややこしくなってくるのでこの辺でやめておきますが、最終的に、最初から本を読めない人はこのトラップから抜け出られないことが確定してしまいます。
*その意味で『漫画でわかる「本を読む本」』は有効だと思います。

一方で、今私がこうして要約したものを読み、「へぇ〜、そういうことが書いてあるのか」と理解することも、広義の「読書」に含まれます。含まれちゃうんです。もし、その部分が気になって書店に立ちよって『本を読む本』の目次をパラパラ眺めれば、もう少しその「読書のいろいろ」がわかるかもしれません。それだって立派な読書です。

そのように読書の境界線を揺さぶってみると、そもそも「本を読んだ」というのは一体どういう状況なのかが曖昧になってきます。そういう揺さぶりを、全力疾走からのドロップキックでおこなってくれるのがピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』です。

この本を「読めば」、どんな状況に至ったら本を読んだと言えるのかを厳密に定義することなどできないと気がつき、そのことが逆に読書を開いていきます。パラパラ読みで良いのです。目次だけをさらうのでもよいのです。もちろん、通読することも構いません。

本に触れること。本の情報に──たとえそれが背表紙だけだったとしても──触れること。

それが読書の出発点であり、あるいは読書そのものなのです。

さいごに

拙著『ソーシャル時代のハイブリッド読書術』では、三つの多読を提唱しました。

この三つを意識すると、「一冊の本をはじめからおわりまで通読したこと」なんて、そうたいしたことではないと気がつきます。もちろん、通読することは大切なことであり、それによって初めて見えてくるものも少なくありません。しかし、ただはじめからおわりまで読んだから「自分はこの本を完璧に理解した」と言えるかというと、かなり微妙なところです。

読書という広大な領域を視野に入れれば、そうした通読が構成するのはごく一部でしかありません。そのように考えれば、これまでよりももっと自由に書籍と付き合っていけるのではないでしょうか。

本棚の肥しにしてもいいし、数行しか読まなくてもいい。すべての人間と等しく仲良くなれるわけではないように、すべての本を平等に接する必要はありません。逆に、相手のことを完全に理解していないからといって、それで付き合えないというわけでもないでしょう。本だってそうです。別に完全に理解できなくてもいいし、そもそもできると思う方が傲慢です。

そんな距離感で、読書という営みを続けていければいいのではないでしょうか。

▼編集後記:





並行して進めているプロジェクトが増えてきておりますが、一つあたりの作業量と負荷を押さえているので現状なんとか回っています。が、これ以上はさすがに無理っぽいですね……。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中

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