記録をするのが当たり前になっているので、特に続けようと意識しなくても続けられています。
毎日体温を計れば自分の平均体温が分かるのと同様に、毎日記録することによって平均的な自分というものを把握できるようになります。
もちろん、記録を取らなくても、人には記憶という“ストレージ”が標準装備されていますので、こちらを使っても同じように把握はできます。
でも、記憶はしばしば知らぬ間に意図せずして改竄されていたり、抜け落ちていたりすることがあり、これを頼りにするのは一定のリスクを伴います。
特に、ミスの許されない仕事においては記憶ベースでは心許ないわけです。
プロとして仕事をしているのであれば、記憶ベースではなく記録ベースで行くほうが確実でしょう。
このあたりは、以下の佐々木正悟さんの言葉の通りなのですが、
料理が上手な人は料理を記憶できた人のはずなんです。泳げる人は泳ぎ方を記憶できた人だし、より速く泳げる人はより細かい記憶ができた人です。身体の記憶がより詳細になっている。そのためにアスリートはみんな記録を残します。
それと同じことをやればいいと思います。
確実だから、という理由だけでは続ける後押しとしては弱いのではないか、とも思います。
そこで、改めてなぜ記録を続けられているのかについて考えてみました。
記録を続けられているのはプロセスを楽しめるから
目に見えない記憶を反芻するより、目に見える記録を読み返すほうが、より豊かにその当時の記憶を脳内再生できます。
記憶の再生という意味では変わらないのですが、記録があることで記憶が補完されるため、より高品質な再生が期待できます。
記憶のみではSD(標準画質)ですが、記録による補完済みの記憶はHD(高画質)にアップグレードできる、みたいな感じでしょうか。あくまでも喩えですが…。
記録があることで、再生品質を向上させることができるわけです。
これは映画やドラマを観ているときの感覚に近いです。
実際に同じ体験をしていなくても、映像を通してあたかも自分が体験したかのように錯覚できるのです。
観ていて思わず泣いてしまうことがありますからね。
その意味では映像の画質は高いほど良いでしょう。
これは自分の実体験であっても同様です。
記憶だけ(SD)よりも記録+記憶(HD)のほうがより深く楽しめるわけです(くり返しますが、SD・HDはあくまでも喩えです)。
まとめると、記録が続いているのはプロセスをより深く楽しめるから、ということになります。
そういう意味では、きちんと記録を残すことで仕事の確実性あるいは信頼性がアップするというのはオマケに過ぎないのです。
仕事の役に立つから記録をする、よりも、毎日がもっと楽しくなるから記録をする、ほうが気持ちよく続けられそうですよね。
記録はプロセスに目を向けさせてくれる
記録を続けていると、おのずとプロセスに目が行くようになります。
記録の素となる発見に敏感になれるからです。
ゴールだけを目指していると、こうした発見はおのずとスルーしがちになります。
無事ゴールできれば良いのですが、できなかった場合は「無価値」ということになってしまいます。
ゴールは目指しつつも、プロセスも楽しむことができれば、仮にゴールできなかったとしてもすでに楽しめているわけです。
このあたり、愛読書である『人蕩し術』(ひとたらしじゅつ)では以下のように解説されています。
今回のまとめも兼ねて引用します。
未来における成功とは、いわばゴールであり、それに向かっての努力はプロセス(道程)です。
しかし、大切なことは、ゴールにあるのではなくて、むしろプロセスにあります。プロセスとはとりもなおさず「進行しつつある現在」のことです。
(中略)
もし、その人のプロセスが充実したものになっているならば、成功という未来の幻想は、その人の現在を幸福にするための良き要因となります。しかし、その反対もあります。ゴールが現在を不幸にするための要因となることもあるのです。
だから、人の幸不幸を左右するのは、ゴール自身ではなくて、それへの途上にあることがよくわかるでしょう。
プロセスが、その人に不幸感をもたらしているとき、その不幸感を脱するためには二つの道しかないといえましょう。
その一つは、ゴールを放棄してしまうこと、つまり成功をあきらめてしまうことです。
もう一つは、現在の自己をよくコントロールして、その不幸感自身を幸福感のほうへ転化してしまうことです。
しかし、このどちらかが常に絶対的に優っているとはいえません。この二者の選択はあくまでもケース・バイ・ケースによります。時には成功をあきらめてしまうほうが良い場合もあるし、時には自己変革して、幸福感を感じられるようにしてしまうことが可能な場合もあります。