ブログを15年続けてみた感想

カテゴリー: 届ける技術


▲ブログを始めた頃のデスクトップ(2005年4月15日)

今から15年前の2005年5月22日、その数日前に取得していたドメイン「cyblog.jp」にXOOPS(ズープス)をインストールしました。「ブログメディアとして運営していく」という一文が日記に見えます。

その後WordPressに移管し、今日で15年たちました。

ブログを長く続けている人の多くが使う言い回しではありますが、やはり「こんなに長く続けるとは思っていなかった」のが正直な感想です。

そして、これまたブログを長く続けている人の多くが使う言い回しではありますが、やはり「ブログを続けていなかったら今はなかった」と断言できます。

特に、フリーランスで仕事を続けているのであれば。

15年間毎日欠かさず記事をアップできているわけではないので偉そうなことは言えませんが、とにかくブログの運営をやめずに続けてこられたこの15年間をふり返り、以下についてまとめてみます。

これからブログを始めようとしている方はもちろん、すでにブログを続けている方にとってもヒントやアイデアがお伝えできればと思います。

今のブログに辿りつくまでの黒歴史

今のブログ(今あなたに読んでいただいているこのブログです)に至るまでに実は7つのブログを開設していました。

いずれも長くても18ヶ月、短いと1ヶ月弱(総記事数2本w)で更新を終了。

以下、これまでのブログの歴史。

更新を終了したブログそれぞれの詳細は割愛しますが(※)、いずれも続かなかった理由は分かっています。

ブログ名にこだわるあまり、納得のいくブログ名が思いつくとそこで満足してしまうこと。

「ブログ名が決まったんだからもういいじゃないか」などとは決して思っていないはずなのに、記事を書くテンションがどんどん下がっていくのです。

※記事原稿はすべて手元にあるので、いずれバックナンバーとしてどこかでひっそりと公開するかもしれません。

7回くり返してようやくこの“構造”に気づき、8つ目の今のブログでは、

という新しい戦略で臨んだところ、続くようになりました(その後、現在のブログ名を命名)。

今のブログを始めるときに決めた1つのルール

これまでの7つのブログの共通点は1つの例外を除いて「書けるときに書く」という無法モードだったこと。

1つの例外は2001年に始めた最初のブログ(当時はブログという言葉はまだ日本には存在せず「Web日記」でした)だけは、毎日欠かさず記事を書くことを心掛けていました。

その後、仕事が忙しくなり平日のみ更新 → 不定期更新 → 放置 → 閉鎖、という道を辿ることに。

そこで、同じ轍を踏まないために今のブログを始めるときに以下のルールを設定しました。

15年目の現在、このルールは守られていませんが(毎日書いたり、何日も休んだり)、序盤はこのルールが機能しました。

仕事に追われていても、疲れていても、酔っ払っていても、とにかくその日の23:59:59までに記事を書き上げてアップする。

今のブログを始めた2005年という年は、

という時期。

しかも、同年3月に35年ローンで都内にマンションを購入し(※)、結果としてではありますが、自分を追い込むうえでこれ以上にない最強の環境でした。

そんな状況ではありましたが、もうブログでみじめな気持ちを味わいたくない、という強い感情にも煽られつつ、とにかく書き続けることができました。

※ここで購入したマンションは2007年12月に売却(もちろん、翌年にリーマンショックが起こることなど知るよしもありませんでした)。

改めて、ブログとはいったい何なのか?

ブログとはいったい何なのか?

7つの失敗と1つの継続の経験からこの問いに答えるなら、というか、すでに3年前に出した答えと変わらないのですが、

ということになります。


改めて注目したいのは「自己紹介」。

上記の記事では以下のように捉え直しています。

例えば、異業種交流会の場で、出版社の編集者の方と名刺交換をしているシーンであれば、「締め切りを守る人であると思われたい」、「時間管理についての本が書ける人だと認識されたい」といった印象を持ってもらえるように意図的に情報を選別して伝えつつ、「この人に時間管理本の執筆依頼をしてみようかな」と思わせるに足る、イヤらしくない程度の「時間管理得意ですアピール」を行うことが自己紹介のミッションとなるでしょう。

まとめると、自己紹介とは、「なるほど、この人は○○な人なのだな」という自分にとって“正しい”ラベリングを施した「自分の印象」を相手の心の内に可能な限り長く留めてもらおうとすること、と言えます。

「“正しい”ラベリング」を見つけ出すには、自分について改めてよく知る必要があります。

そこで、ブログが役に立つ

では、自分についてよく知るにはどうすればよいか?

それは、日頃から何となく思っていること、感じていること、考えていることを言葉で書いてみること。

書くことで頭の中に漂っていたモヤモヤしたものを言葉で捕らえることができます。

漂っているモヤモヤをそのままにしている間は自分の頭の中にあるにもかかわらず自分のものにはなっていない。

野に舞う蝶のように、どこかに飛び去っていってしまうかもしれない。

それを見失う前に捕まえて、標本にしていく。

当然、舞っていたときの精彩は失われてしまいますが、標本を集めれば集めるほどに何となく見えてきます。

自分の核心にあたる何かが。

自分という存在はこの核心から光を発し続ける発光体のようなものです。

何となくであれ、いや、何となくだからこそ、思った・感じた・考えたことを捕らえて集めていくことで、核心に近づいていくことができるのだと思います。

核心が見えてくれば、確信を持って革新の旅を始めることができます。

何か特定のテーマを掲げたうえで書き始める場合でも、何となく書き始める場合でも、ブログを書き続ける限りはこの核心 → 確信 → 革新の道を辿ることになります。

書き続けているからこそ、自分の核心を確信をもって語ることができ、それによって必要な革新を引き起こすことができるわけです。

読んだことは忘れるが、書いたことは覚えている

本を読むことで、誰かから学ぶことができます。

でも、ブログに限らず自分の言葉で書くと、自分自身から学ぶことができます。

書けば書くほど、書くときに昨日以前に自分が書いたことが群がってきて、思考を助けてくれるからです。

とはいえ、書くだけで読むことをしなければ、書くことに事欠くことになってしまいます。

そこで本を読む。

書けることはいくらでも書けるのに、書けないことは一行も書けない。

本を読んでいるだけではこの「書けない」感覚を味わうことがないので、読んでも読んでも読んだそばからどんどん抜け落ちていっているのに、そのことに気づきにくい。

もちろん、「本を読むだけ」でも残るものはゼロではありませんが、書くことでこの抜け落ちを回収でき、残るものを増やすことができます。

そして、「本を読むだけ」では忘れることも、「本を読んで書いた」ことは覚えているものです。

これが思考を助けてくれます。

自分の核心に確信を持って革新の道を力強く進んでいくことができます。

こんなことを書いてもいいのか?

書き続けていると、いや、おそらく書き始める前から「こんなことを書いてもいいのか?」と悩むことがあります。

という不安と恐れに足がすくむのです。

あるいは、いわゆるタブーに当たる内容を書こうとしているとき、あるいはそれと知らずにタブーに当たる内容を書いてしまうかもしれないとき。

どんどん連想がエスカレートしていきますが、ここまで具体的に言葉にせずとも人はこのような不安が連鎖する袋小路を抱えていて、いつでもそこに飲み込まれる準備ができています。

これらは、しかし、幻想です。

以下の本で「幻想である」と学びました。

赤ん坊が、まだ八ヵ月感覚を得る前は、一種の「全能感覚」の中にあると考えられます。これは、個我の成立と同時に一種の不足感が発生するからで、これ以前は、空腹や排泄などの本能的感覚以外の欲望、すなわち衝動はまだ覚えていない状態です。

いいかえれば「衝動とは不足感である」ということなのです。で、この不足感のなくなった状態が「全能感覚」つまり、すべてが可能であり、何も求めていない意識状態なのです。

では、この衝動という不足感は何を求めるのでしょうか。

それは「幻想」です。そして、この幻想とは「外に向いたものは極大化幻想」であり、「内に向いたものは極小化幻想」であるといえましょう。

出世や金持ちを目指すことは、際限なき極大化への幻想です。未来には成功した自己像のイメージがあり、これが現在の意識における幻影です。

この逆に、無欲であろうとし、金銭的執着や、地位名声に対する欲望を捨てんとするは、極小化を求める幻想なのです。この極小化は、時には「賢者であろうとする願望」であることがあり、この場合、人々からの賞讃を暗に、あるいは無意識に求めていることもあります。

これなどは、意識は内に向いながら、なお、自己重要感という外へ向う意識が混和した複雑な状態といえましょう。

「書くからには賞賛されるに値する内容にしなければならない」という幻想に囚われるからこそ、それができなかったときには「不安が連鎖する袋小路」に一直線に飲み込まれるという、これまた幻想にすっぽり包み込まれてしまうわけです。

結婚式のスピーチでアガってしまってうまく話せないようなときにも、同じことが起こっています。

ブログを書くときに「こんなことを書いてもいいのか?」と悩むときにも、同じことが起こっています。

ブログを書き続けると何が起こるか?

すでに書いてきたとおり、ブログを書くことは終わりのない自己紹介です。

書けば書くほど自分の核心に迫ることができ、アイデンティティと存在価値が明らかになっていきます。

ブログを書いていたら出版のオファー

ブログを始めてから半年ほど経った頃、とあるイベントにて最近本を出した友人から担当編集者を紹介されました。一度会って打ち合わせをした結果、ブログの内容をベースにした出版の話が決まりました。

実は出版自体は2000年、2002年に経験していたので初めてではなかったのですが、ブログ経由でのオファーはこれが初となりました。

ブログを開設してから11ヶ月後の2006年4月に以下の本を上梓。

また、2005年7月7日にとある記事にコメント(※)をくださったことがきっかけで知り合った佐々木正悟さんとは、2007年から現在までに、共著で以下の本を出すことができました。

※現在はコメント機能はオフにしています。

ブログは事業を生み出す

出版以外にも、この15年の間に、いくつもの事業を立ち上げました。

今も続けているものもあれば、すでに畳んだものもあります。

僕にとっての事業の定義は「こういう自分ならこんな人に役に立てるのではないか?」という仮説を立て、検証していく活動のことです。

つまり、「自分にできることで役に立つ」こと。

事業がうまくいかなくなり畳むケースには次の2つがあります。

一つは、仮説を立てた時点では「これこそが今の自分の核心だ!」と確信を持てていても、続けるうちに「核心に見えていたもののもっとずっと先に核心があった」ことに気づくケース。

もう一つは、核心は正しくとらえていたにもかかわらず、そこから発するエネルギーを必要としている人が少なかった(あるいはいなかった)ケース。

供給と需要の問題、あるいはプロダクトとマーケットの問題です。

ただ、ここで「失敗」という言葉は慎重に使いたいと考えています。

以下の本で失敗の定義というものを学んだからです。

「福島君、四つの事業に失敗したって言ったけど、そもそも失敗の定義は何だい?」

私は答えました。

「失敗というのは、あらかじめ立てた目標に対して、どんなに努力しても、ありとあらゆることをしても達成できなかったことです」

その人は、大変びっくりした顔をして、「福島君、あなたは何もできない人だよ。もう失敗しかしないよ」と言いました。私は、どうしてそのようなことをいきなり言われなきゃいけないのかわからず、言い返しました。

「どんなに努力したって、世の中には、うまくいかないことってあるじゃないですか」

その人は、もっとびっくりした顔で言いました。

「やばいよ、福島君。君、誰かに洗脳されているんじゃないの?」

「えっ?どういうことですか。だって、どんなに努力したって、世の中にはうまくいかないことってあるじゃないですか」

「ないよ。福島君が諦める以外に失敗ってあるかい?ないよね、君が勝手にやめただけじゃないの。それなのに、どうして偉そうに失敗したって言うの?君が諦める以外に失敗ってないでしょ」

本当にびっくりしました。今まで、失敗というものは、どんなにがんばってもうまくいかないことだと思っていました。しかしその人は、失敗とは私が諦めたことだと言ったのです。その人は、続けて言いました。

「君が諦めなければ失敗なんてないよ。成功しかない。福島君は、始める前から諦めるところを決めていたんだよ。君は、営業に行って断られたと言ったけど、営業に行った会社の全社員の名刺を見せてごらんよ。まさか1人や2人に会って諦めたんじゃないだろうね。君の話を聞いてくれない人がいるって?じゃあ何回会いに行ったんだい?千回ぐらいは会いに行ったかい?まさか5回や10回じゃないよね」


僕は実に損をしてきた

先ほど「畳む」という言葉を使いましたが、これは事実上の失敗、すなわち諦めたことになるでしょうか?

核心を見誤ったケースもあれば、必要としてくれる人を見つける努力を打ち切ったケースもあります。

まず、核心を見誤るケース。これは避けがたく起こることです。

時間にもお金にも限りがありますから、本当の核心が見つかるまで事業の開始を遅らせるわけにはいかないからです。

そもそも本当の核心が見つかったとして、それが本当の核心であるかどうかを検証する術がありません。

従って、「これだ!」と思ったら即座にスタートする。間違っていたと思ったら速やかに畳み、次の核心に乗り出す。

これを続ける限りは自分の可能性を諦めることなく検証を続けていることになるはずです。

次に、必要としてくれる人を見つける努力を打ち切るケース。

この点については、僕は実に損をしてきたという自覚があります。

時間にもお金にも限りがありますから「探しきれない」わけですが、自分だけで探そうとするがゆえに「探しきれない」という幻想から抜け出せないのです。

8年前のことですが、当時の事業の1つに、本当に偶然に僕のツイートを目にして、つまりTwitter経由で申し込んでくださった方がいました。

もちろん、ツイートすることで必要としてくれる人の目に留まるかもしれない、という期待があってツイートしていました。

でも、実際にそのようにして申し込みをいただけたのに、その後も僕は「あれはたまたま起きたことで、そこに再現性はない」と分析し、以後ツイートで見つけてもらう行為に期待をしない自分を作り上げてしまいました。

それだけならまだしも「ツイートすることで見つけてもらうなんて浅ましい」とさえ思うようになっていました。

まさに幻想の虜です。

今もこの幻想から完全に脱し切れているわけではありませんが、もし同じような幻想を抱いている人がいたら、そしてそれが幻想だと気づいていないのなら、一緒にこの幻想から抜け出しましょう(笑)。

今も続けている事業

立ち上げたり畳んだりしつつも、今も続けることができている、続けさせてもらっている事業は以下です。

それぞれの詳細はサービスメニューをご覧ください。

ブログを書くことを通して「できることで役に立つ」自分であり続ける

ずいぶんと長く書いてきてしまいました。

ここが最後のブロックです。

今回書きたかったことを一言でまとめるなら、

ということになります。

これはとりもなおさず、僕自身がこれまでにやってきたことであり、今まさにやっていることであり、今後も生きている限りはやっていき続けることです。

以上、ブログを15年続けてみた感想でした。

最後まで読んでくださり心より感謝します。
引き続きよろしくお願いします。

参考文献:

『人蕩術極意』

人蕩術(じんとうじゅつ)3部作(『人蕩術奥儀』・『人蕩術極意』・『人蕩術皆伝』)の第2作です。2012年に取り組んだ事業(Twitter経由で申し込みのあった事業です)の受講者の方に教えていただいた『人蕩術奥儀』(第1作)を読んだのをきっかけに、残る2作もむさぼるように読みました。

#人蕩術 のタグのついた記事で言及しています。



『真経営学読本』

メンターとして私淑している(実際に連続講座を受講したこともあります)#福島正伸 先生の著書。
中咽頭ガンを宣告され、手術をしても社会復帰は絶望的、という状況に対して福島先生は手術を断ります。
以下、本書冒頭より引用。

「この命は自分のためだけでなく、人のために使い切りたいと思っているんです。生きることだけ考えるなんて、できません」
「あなたは頭がおかしいとしか思えない」
「なぜわかったんですか?そうなんですよ。頭がおかしいって、よく言われるんです」

社会復帰ができる治療法を探して37の病院を回る。同時に、万一のことを考え、自分の声で人生の集大成ともいえる「真経営学」をCDに吹き込む。
このCDを1,000セット限定で発売したところ即日完売。

上記CDの内容を書籍化したものが本書です。



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