頭の良い人はさておき、そうでない人は外部的なものの力を使うことで、知的生産がスムーズに進むようになる、あるいはそうすることでやっとこさ達成可能になるのではないか、というのが三つの記事の論旨です。
ここで、「知的生産は頭の良い人がやればいいんであって、そうでない人はノータッチでいいんじゃない?」という反論が出てくることでしょう。
その反論は、半分正解で、半分は間違っています。
市民と知的生産活動
『知的生産の技術』の中で、梅棹忠夫は以下のように述べています。
研究者、学生、文筆業者、あるいはひろく情報産業従事者といってもいいが、そういう人たちの範囲をこえて、すべての人間が、その日常生活において、知的生産活動を、たえずおこなわないではいられないような社会に、われわれの社会はなりつつあるのである。
もし「知的生産」という行為が、プロフェッショナルな知識労働者にのみ限定されているならば、まさに頭の良い人だけがやればよいことになるでしょう。しかし、梅棹の見立ては違っています。現代社会が情報化に向かっていけばいくほど、その社会で生活する市民にとって、情報を扱う活動(つまり知的生産活動)は欠かせなくなるのではないか。そのように梅棹は指摘するのです。
梅棹が『知的生産の技術』を世に問うてから50年の年月が経ち、梅棹の指摘した状況ははっきりと現実化しています。一日の中で、情報というものをまったく扱わない人は極めて稀でしょう。別段有意義な研究結果を出すことだけが知的生産ではありません。情報を読み、文章を紡ぎ、問題解決の方法について考える、といった行為からしてそれは知的生産なのです。そうした行為は、市民のほとんど誰でもが日常的に行っているでしょう。
よって現代においては、頭の良い人のため技術やツールだけでなく、そうでない広い人たちに向けた技術やツールが検討される必要があります。
少なくとも二種類の
ここで気になるのが、技術の適応性です。簡単に言えば、頭の良い人向けの方法論は、広く「凡人」にも適用できるのでしょうか。どうやらそうではなさそうだぞ、というのが最初に紹介した三つの記事で確認してきたことでした。
「凡人」(つまり、特段頭が良いわけではない人たち)向けの方法論が、頭が良い人にとってまどろっこしく感じられるように、頭が良い人向けに最適化された方法論は、「凡人」にとっては負荷が強すぎるでしょう。普通の人の運動と、プロスポーツ選手のトレーニングメニューが違っているのと同じことです。
これはどちらが良い/悪い・優れている/劣っている、という話ではありません。対象の性質が異なるから、方法論も変わってくる。それだけの話です。
もちろん、きめ細かく観察していけばそれぞれの人はそれぞれに性質が異なるわけですから、方法論も細部はさまざまであってしかるべきでしょう。それでもまずは、方法論を二種類規定することから始めてみることで、そこから多様性が広がっていくのではないでしょうか。
さいごに
別段、「頭が良い人」と「凡人」を断絶させようというのではありません。どちらの場合であっても共通して言える方法論はあるでしょうし、そもそもその二つが明確な線引きを持っている訳でもありません。誰が「頭が良く」て、誰が「凡人」なのかは、そもそもわからないのです。
私がここで提示したいのは、「自分は頭が良くないし、示された方法論を使ってもうまくいかないから、知的生産とか無理」と思う人を少しでも減らしたい、という願いです。
情報社会に生きる市民にとって、情報を扱う技術は有意義を通り越して必須のものと言えます。それを身につけているかどうかは、その人の(安易な言葉を使えば)可能性を大きく変えてしまいます。だからこそ、知的生産の技術に臆病や恐怖を感じて欲しくないのです。
その意味で、凡人のための知的生産の技術とは、市民としての知的生産の技術です。この検討こそが、50年越しの宿題ではないかと、そんな風に思います。
▼参考文献:
冗談抜きで今もっとも読んでもらいたい本ですが、むしろ現代版の『知的生産の技術』を書き下ろすことが必要なのかもしれません。
▼今週の一冊:
たまにはSFを。『あなたの人生の物語』のテッド・チャンが送る新作短編集です。ええ、もうこれは間違いないですね。
▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。メルマガ毎週月曜配信中。