日記を読み返すと過去の自分と一体化できる。その効用とは?



数年~数十年前の日記を読み返すことがあります。読み返しているうちに当時の記憶が蘇り、日記の行間、すなわち日記に書かれていないことも思い出され、当時の気持ちもよみがえり、まるで頭の中だけタイムスリップが起こったかのような錯覚に陥ることがあります。

このことは特に「うまくいっていたときの自分」を再現するうえで役に立ちます。


記録をよみかえすと記憶がよみがえる

まず、以下の記事です。


タイトルのとおり、144日間毎日欠かさず「今日の気分」を記録し続けてみた結果わかったことを詳しくレポートしています。

以下は「わかったこと」の抜粋。

まず、「普通」以上の日が144日のうち95日ありました(66%)。
「壮快感」以上に限ると56日(39%)。

つまり、4割弱は「だいたい良い気分」で過ごせていることになります。

次に、「不快感」以下の日が49日ありました(34%)。
「憂うつ」以下に限ると14日(10%)。

5ヶ月のうち約2ヶ月(7週間)は「思うようにいかないものだ」という気分で一日を終えることになり、そのうちの2週間はかなり深刻で残念な気分に見舞われる、ということです。

このあたりは実感とも一致しています。

詳しくは記事をお読みいただくとして、今回掘り下げたいのは、記事にはあえて書かなかった以下の事実についてです。

2013年11月に一週間ほどタンザニアを訪れました。
この期間は上記の144日間の中にふくまれています。

実はこの一週間のうちの何日かは、「気分の記録」が漏れていました。

旅行中ということで、いつもの習慣が発動しなかったり、わかっていてもベッドにバタンキューな日もあったりして、やむを得ず抜けたのです。

それでも、記事では一日も漏れなく気分が記録されています。

あとから補完したのです。

この記事を書いたのは2014年1月22日なので、非日常で印象に残りやすい旅行中のこととはいえ、2ヶ月前の特定の日がどんな気分だったかを正確に思い出せるものではありません。

では、どうやって補完したのか?

答えは、その日の記録を読み返した、です。

普段から分単位で行動記録をつけており、朝起きてから夜寝るまでの間に自分がどんな行動をとったのか、その時に何を思ったのか、感じたのか、考えたのかを可能な限り文字と写真でつづっています。

もちろん、すべてを漏れなく記録することは不可能です。

でも、「引っかかったこと」だけに限定すれば、それは可能です。

さらに、そのような限定的な記録だけだからこそ、不可能が可能になるのです。

旅行中ももちろん可能な限り自分のアンテナに引っかかったことは記録に残していました。

そこで、「気分の記録」が漏れた日の記録を読み返してみると、断片的であっても、その断片を目にするだけで、記録されなかった欠落部分が浮かび上がってきます。

遺跡の発掘調査のように、骨の一部が見つかるだけで、全体の骨格が再現できるようなイメージです。

記録しているのは以下のような項目です。

これらを時系列に追っていくことで、当日の様子が脳内で“再生”され始めます。

書かれていないことも自動補完され、当日の記憶が鮮明によみがえります。

もはや脳内は当日とほぼ同じ状態になっているので、当日の気分がどうであったかという問いに答えるのは極めて容易なことでした。

このようにして、補完したわけです。


「別人」になりきることができる

さらに、記録をつけて読み返すことの効用を応用すると、「別人」になりきることができます。

女優の中村優子さんがこれを実践しています。

少し長いのですが、紹介記事を引用します。

» 体に染みついていればどんな気持ちも乗せられる | ピックアップ魂 | 役者魂.jp

― 日記?

そう、秋代日記。

役に入る前に、最初に菊池と出会ったときのことから書いていって、演じている期間もずっと続けました。

自分の五感に影響を与えるようなこと……例えば「風があたたかかった。夕陽が赤かった。菊池はオレンジのTシャツ着ていて、指がすごく細くて、目が離せなかった」とか、そういったことを想像でずーっと書いていったんです。

― じゃあ、菊池のどこに惹かれたのか、なんで秋代はホテトルをやったのかとか、そういったところまで?

そう。秋代があの仕事をしているのは、菊池と出会ってしまったからです。

好きすぎて、こわくて、気持ちを言えない。手に入れたら失うかもしれない、友達の関係が壊れてしまうかもしれない。でも、さみしいじゃないですか、好きな男に抱かれることができないなんて。それで自傷的にホテトル嬢をやったんだけど、抱かれるほどに孤独になっていく。そういったこと全て書いていきました。

― それはリアルですね!

リアルですよ。最終的に1冊の日記になりましたし。(撮影が始まってからも)演じる中で、電話をしたり、居酒屋で会ったり、気持ちが動くようなときはわざと文字にのせたので、すごく丁寧に書いているときもあれば、殴り書きのようなときもありました。

後になって「ストロベリー」の原作を読み返したとき、日記で書いた言葉と同じような言葉が漫画の中にもあったんです。

やっぱり、同じところに向かっていったんだなあって感じました。
今でも読むと涙が出てきますよ(笑)。

過去の自分も未来の自分も今の自分から見れば別人です。

過去の自分の決意も、時間がたてば別人の決意ということになり、やすやすと踏み倒されかねない、ということです。

そんなときは、記録をよみかえすことで、記憶がよみがえり、過去の自分と一体化できる、というわけです。


「うまくいっていたときの自分」を再現する

これを応用すると、例えば「うまくいっていたときの自分」を再現することができます。

もし、いま落ち込んでいるのであれば、過去において「うまくいっていた時期」をいくつかピックアップし、その中からどれか1つを選んで読み返します。できればその前後3ヶ月くらいも含めて読み返すことで、「当時の自分」が脳内に“ロード”されるでしょう。映画「MATRIX」の訓練プログラムのようなイメージです。

日記を書いてない、あるいは残っていない場合は、その当時のメールのやり取りをすべて読み返すことでも、同じような効果が得られます。

といった、感心させられたり、呆れたり、驚いたり、といった、“感情のジェットコースター”を楽しむことができるでしょう。

この過程で初心を思い出せたり、「今だったらもっとうまくできる」ということで、今のやり方を洗練させるきっかけが得られたり、といった効用も期待できます。

 

参考文献:

この記事を書きながら、『日記の魔力』の以下のくだりを思い出していました。

本を読んで考える。それはすなわち、その本の著者と対話することである。それに対し、日記を読み返す作業というのは、完全なる「自己内対話」といえる。

日記を「書く」という作業は、自分の行動を文章化し、「客観化」するためのものである。そうした意味において、パソコンで日記をつけるというのは非常にいい方法だといえる。なぜなら、手書きで書くと、それは見るからに自分の文字であるため、意識のどこかに主観が残ってしまうが、パソコンのディスプレイに現れる文字には「私」を連想させるものが何もないからだ。

日記を「書く」のが客観化であるならば、日記を「読む」のはそれを再び「主観化」する作業だといえる。



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実は、僕自身も1994年6月29日を境に、それまで紙ノートに記していた日記をパソコンに移しました(パソコン日記に限れば、表氏と同程度のキャリアということになります。それゆえ、共感できる部分が多かったのかもしれません)。

最初は、「メモ帳」を使って記録するようにしていたのですが、より細かく行動記録をつけるために、DBProというデータベースソフトで簡単な管理システム(システムというほどでもないですが)を作り、

  • 日付
  • 行動内容
  • 開始時刻
  • 終了時刻
  • 備考

という5項目を入力していく、という方法に移行しました。データベースソフトですから、検索も抽出も思いのままで、数ヶ月間の間に特定の行動が何回行われているか、頻度や時間帯はどうか、といった分析ができ、それが非常に楽しく感じられたのを今でも鮮明に覚えています。

この時の“システム”が現在も日々活用しているタスク管理ツールに受け継がれているのだと、改めて気づかされます。


洗い出しとレビューといえばGTDだが、結局これは二人の別人の意見を調整する関係にある。やろうとした自分と、やった後で振り返る自分とは、当然言い分が違う。できるだろうとおもっていたことができなかった。やれば楽しいだろうと思っていたことが全然そうじゃなかった。アマゾンのレビューを参考に本を読むようなもので、レビューを書いている人と、読書する人は別人だから、ある程度の誤解は避けようがない。

だが洗い出しとレビューの間には、何か欠落した気分があると、私はずっと気になっていた。PDCAも一緒だが、未来を見ている計画時の自己と、過去を見ている反省時の自己の間には、現在進行形で苦しんだ実行時の自己がいたはずだ。


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